高知城、板垣退助像より朝日をのぞむ〔504〕2004/09/01
2004年9月1日(水)快晴!
今朝もよう晴れちょります。きょうから9月。昨日で子供達の夏休みも終わりました。宿題の自由研究は滑り込みセーフ、何とか間に合いましたね。何でもっと早うやっちょかんかったがやろう、と思うのは毎年の事。ひまわり太郎ご幼少のみぎりからおんなじ事を繰り返しゆうががおかしいですね。
Jr.1号の自由研究のテーマは高知の城下町、特に下町(しもまち)の由来と成り立ちについて、という、父親の趣味がかなり入ったものでございました。
そこで、完成を記念して今朝は高知城をたつくってきました。写真は、追手門から入って石段を少し上がった所から、追手門方面を撮影したもの。背中が写っている銅像はご存知「板垣退助」ですね。我々の世代には百円札の人物として馴染み深いですが、土佐の生んだ偉人の一人です。自由民権運動の中心人物として活躍したことは申すまでも無いので、今日は、退助がどのように頭角を現して来たのかお話しましょう。
退助は小さい頃から勝負事を好み、特に相撲なんかが大好きだったようです。とにかくエネルギーに溢れた大悪童。ひまわり乳業本社の近くの中島町で、土佐藩の上級武士の子として生まれました。頭脳明晰で行動力がずば抜けちょったので、1854年には江戸勤番、1861年には24才の若さで江戸留守内用役兼軍備用を命ぜられて、オランダ式の兵学を学ぶ機会を得ます。その後明治維新がはじまり、退助は、戊辰戦争に従軍、その兵学の知識と統率力が買われて「東山道先鋒総督府参謀」として土佐藩兵の「迅衝大隊」を率い、大きな功績をあげました。そしてその後、退助は32才で高知藩大参事に抜擢され、その翌々年には34才で明治政府の参議へと上り詰めていったのです。
その後はご存知の通り野に下って、自由民権運動を展開していくこととなります。