目からウロコの話と切り株〔5027〕2017/01/19
2017年1月19日(木)曇り
ぬくい。ぬくい朝になりました。昨夜降った雨に濡れた地面。
さて。
昨日、「パウロ」という本を寝る前に読んでいる、という話を書きました。睡眠導入本としては秀逸で、やすらかな眠りを提供してくれます。新約聖書に載せられたパウロの書簡というのは、その表現がとても難解。古今東西の聖書学者があーでもないこーでもないと読み解いてきた歴史があるそうです。
で、パウロに関しては、目からウロコの話がありました。
昨日も書いたように、キリスト教が世界宗教になった最大の功労者、パウロは、元々は厳格なユダヤ教徒。律法を重んじ、ユダヤ人であることを一番重要視するヘブライストであった。キリスト教とに迫害の手を加えていたとされる、パウロ。そのパウロが、ある出来事をきっかけにして、キリスト教の信者となる。それも、異邦人でも誰でも等しく信者になれ、厳しい律法に拠らず、十字架に架けられたイエスと神を信じることで救われる、という教えを広めることになった、パウロ。
今、手元に本がないので記憶で書きます。
「ダマスクスに向かっていた厳格なユダヤ教徒パウロを、突然、強い光が照らす。そして、イエスからの「なぜ、私を迫害するのですか?ダマスクスへ行けば、自分の為すべきことがわかります」という声を聴く。目が見えなくなったパウロは、そのままダマスクスの街へ入る。そこで、キリスト教徒の青年がやって来て、パウロの目を触ると、目からウロコのようなものが落ちて、目が見えるようになった。そして、突然、イエスの教えを語り始めた。」
こんな感じやったと思います。目からウロコが落ちる、という言葉は、パウロからきてたんだ。たぶん熱心なキリスト者にとっては常識の話なんでしょう。子供の頃日曜学校へ通い、牧師さんのA先生の話を毎週聴いていたのに、全然知りませんでした。
この話は、ルカによる創作だという説もありますが、まあ、それはそれ。
ところで、カトリックには神父さんがいて、プロテスタントには牧師さん、というのはご存知ですよね。両方聖職者ですが、神父さんには階級があり、牧師さんには、ない。牧師さんは、一般の信者と同じ立場である、ということになっちょります。
ではイスラム教は、というと、聖職者はいない。少なくとも、それが信仰の基本であり、建前。アッラーの神の前に、皆、平等である。ムハンマドは預言者ですが、聖職者では、ない。ホメイニ師も、この論理でいけば聖職者ではなかった。そういうことになります。
話はまったくかわります。
ここは今朝、5時過ぎの野市、上岡八幡宮。
この拝殿前の風景、14年前から撮影してきましたが、こないだ、ここに斜めに立っていたヒノキが伐採されちゅうことに気付きました。見なれた樹木だったので、ちょっと、ビックリ。
確かに、斜めになっちょって、拝殿に倒れかかってくるような感じでした。去年の耐震工事の際に、つっかい棒がしつらえられちょったんですけんどね。あれでも不安、ということだったんでしょうか。
ご神木でもないので、まあ、問題はない訳ですが。
願わくば、その伐採した木を、この八幡様の何らかの施設に再利用してくれると有り難いですよね。なんか、そんな気がしました。
この切り株の年輪、数えてみました。素人なので、まったく正確ではありませんし、読みづらい部分もあるので間違うちゅうかも知れませんが、概ね55年くらいに見えました。プラスマイナス10年くらいでしょうか。
丁度、材木として利用するには良い加減の樹齢だと思います。何より、ここへ参拝に来る皆さんの思いが込められています。拝殿前の樹木なので。