災害の記憶と説明板〔4975〕2016/11/28
2016年11月28日(月)晴れ!
昨日の雨も上がり、良いお天気。朝の気温はそんなに低くありません。
土曜日、酪農家さんの研修会と懇親会で、車を会社に置いて帰ったので、今朝はバス出勤。宝永町バス停から空港連絡バスに乗り、高知空港を経由して終点の農学部前で下車。そこから歩いて20分で、会社。高速道路が開通して、空港バスのルートが変わってしまいましたが、とさでん交通の一部のバスは、農学部まで足を伸ばしてくれるのが、嬉しい。
写真は、宝永町バス停へ向かう途中に撮影した「ときわ公園」。この南側界隈が常葉町と呼ばれたことを、今の若い皆さんは知っているのだろうか。「常盤」の由来は、堀川沿いの松並み木であることを知っている人はどれだけ居るのだろうか。松は常緑樹で寿命が長く、「常盤の松」と呼ばれるとこから「常盤町」。で、ここはときわ公園。
この西側界隈は城見町。お城が見えたんでしょうね、キレイに。今ではまったく見えませんが、城見町。写真右端に写っているマンション。あの場所には映画館がありました。第二劇場。バブルの頃まではあった記憶があります。取り壊されて、今はマンション。
で。
ときわ公園の北入口の横に、古びた説明板が立てられているのに、今朝、気付きました。今までまったく気付かんかったのは、迂闊。書かれている文章を転載しましょう。以下転載。
知下地区は1970年8月21日 台風10号による異状高潮のため 非常な浸水被害を受けました。そのときの最高潮位(海抜)と過去5年間の平均満潮位(海抜)をここに表示します。
1985年6月 高知市
以上転載。
で、その文章の下に図が描かれています。
過去5年間の平均満潮位が、80cm。台風10号の際の最高潮位が3m。そう。3mという高潮に見舞われた高知市でも、この知下地区は大規模な浸水に見舞われたのでありました。ここの現在の海抜は0.1m。元々低い土地で、一旦堤防を越えて海水が入ってくると、なかなか大変な地区。あの高潮は、ポンプも全然機能せんくらいすごいものでした。
その記憶を忘れないように、1985年になって立てられた説明板だったんですね。
1970年の台風10号は、その後の高知市の防災に非常に大きな影響を与えました。浦戸湾沿いの堤防は高く嵩上げされ、ポンプ場の整備も進んだ。全国でも有数の水害に強い都市、高知市となるきっかけが、あの台風であったと記憶します。
それから15年が経過し、ポンプ場の整備や護岸工事が一通り済んだところで、この説明板を立てたのでしょうか。
あの高潮被害は、浦戸湾で急速に進んでいた埋め立て工事の影響ではないか、ということになり、浦戸湾西岸の大規模埋め立て工事が中止に追い込まれたのは、結果的に良いことでした。
1970年の記憶。あれは万博の年だったのか。台風10号は、万博の年。
1985年というと、僕は高知へ帰って社会人になった頃。あの頃、この近くにあった販売店さんに来たりしてました。あのマンションのところには第二劇場。
災害の記憶は、寺田寅彦先生ではないですが、忘れられていくもの。残そうとして残していかない限りは。