赤鉄橋、木星、沈下橋〔4952〕2016/11/05
2016年11月5日(土)快晴!
今朝は中村。四万十市中村。昨日の夕刻、やって来ました。で、中村支店のメンバーと、美味しいイタリア料理店で飲み食い。いや、美味しかった。警察署の近くにあるエルバというお店。支店のメンバー推奨だけのことはありました。やはり、地元のことは地元に教えてもらうのが、一番。
そんな訳で、今朝は、四万十川RUN13km。街中から赤鉄橋、そして四万十川を遡上して佐田の沈下橋まで走ってきました。なんか、久々ですね、佐田の沈下橋。たぶん、去年の7月9日以来。一年以上走ってなかったのか。四万十川。
走り始めたのは午前5時。真っ暗。
佐田の沈下橋に到着する頃、ようやく白み始める。なので、往路は、真っ暗な土手道を恐る恐る走ることになりました。土手の上は、まだ良いのですが、途中から山が迫ってきて、山と川に挟まれた道は、木々に囲まれて、何も見えない。少しだけ白み始めた暗い森の中を、目を凝らしながら慎重に、走る。それはそれで、なかなかドキドキする体験ではありました。
さて。写真。
真っ暗な四万十川右岸の土手の上から、赤鉄橋方面を撮影してみました。土手の上も真っ暗で、手元が見えず、なんか、草みたいなのが写りこんでしまった。でもね、キレイでしょ?
闇夜に浮かび上がる赤鉄橋。赤鉄橋の向こうには中村の街灯り。そして、赤鉄橋の真上に、木星だ。その木星の周辺には、写ってはないですが、春の大三角形が存在します。おとめ座のスピカ、しし座のデネボラ、うしかい座のアークトゥルスで、春の大三角形。こないだも書いたように、秋来りなば、春、遠からじ、という訳だね。
通称赤鉄橋は、正式には四万十川橋。渡川橋とも言う。大正15年架橋。四万十川(渡川)という川は、川幅が広い。ので、橋を架けるのは、大変。
それでも、ここに鉄橋を架けることになったのは、大正4年、増水した渡川を渡っていた渡し舟が転覆して女学生など11名が犠牲になった事故がきっかけであったと言います。悲願の鉄橋。
昭和21年末の南海地震で橋桁が落下するなどの大きな被害を受けるも、翌年には復旧。もう、なくてはならない橋になっていたのでありましょう。
現在でも、赤鉄橋から上流では、今日走った佐田の沈下橋まで、橋はありません。6kmくらい、橋がない。佐田の沈下橋は、正式名称は今成橋で、架橋されたのは昭和47年。意外に新しいんであります。
なんとなく、沈下橋と言いますと、歴史的遺物で古い古いもの、というイメージがありますが、結構新しいもの。
以前にも書きましたが、この沈下橋というシステムを日本で最初に考えたのは、高知市役所の、吉岡吾一さんという土木技師。当時の高知市土木課長、清水真澄さんに具申し、県や内務省に幾度も幾度も折衝して、認可をもらったという最初の沈下橋は、昭和2年、高知市を流れる鏡川の、現在の柳原橋の少し上流に完成。僕らが中学か高校の頃まであった、あの沈下橋だ。
四万十川と言えば沈下橋ですが、この時の、吉岡技師の発案と清水課長の熱心な折衝がなかったら、ひょっとしたら、今の沈下橋はなかったのかも、知れません。
で、佐田の沈下橋が架けられる昭和47年までは、そこには渡し舟。四万十川は、赤鉄橋以外は、渡し舟で渡る川でした。僕が中学校に上がる頃まで。
ほんの、こないだのこと。