地形を利用し、地形を変えた宇喜多秀家と岡山の城〔4907〕2016/09/21
2016年9月21日(水)曇り
今朝は岡山。業界の寄り合いで、昨日のお昼、やって来ました。台風の影響でまだJRは動いてなかったので、車で坂出へ。12:40に運転が再開されたJR瀬戸大橋線、マリンライナーに乗って岡山。
台風は過ぎ去りましたが、台風一過、という訳には参らず、少し雲が多く涼しいお天気。
今朝は岡山城界隈をたつくって来ましたが、お城の東を流れる旭川、このように増水しておりました。旭川は岡山城の内堀でもあります。
岡山市、岡山県の由来となった岡山という丘の上に立つのが、岡山城。
戦国期、ここは宇喜多氏の支配下にありました。宇喜多直家が下克上で頭角を現し、この地を支配する。で、旭川河口デルタ地帯の丘、石山に城を築いて本拠とした。
ウィキで岡山城を見てみると、そのデルタ地帯には3つの丘があり、真ん中が石山、その東が岡山、石山の北西が天神山であったという。
で、石山に城を築いたのが宇喜多直家で、その石山も取り込む形で岡山に城を築いたのが、息子の宇喜多秀家、という訳だ。
その3つの丘、天神山、石山、岡山。これ、現地を見ても、Googleマップを見ても全然わかりませんが、地理院地図の治水地形分類図で見てみたら、見事なまでにハッキリクッキリわかるんであります。これ。
旭川が蛇行する部分の下。西岸。黄土色の部分は山を表す。わかりますよね、3つの丘。
ここは広大なデルタ地帯。丘と言いましても十数メートルで、典型的な平山城だ。なので、防御には適しちょらん。宇喜多秀家が築城した頃は、まだまだ戦国動乱期。そんな時代に、平地に城を築くには、かなりの勇気と知恵が必要であったでありましょう。
この写真。先の大戦で焼失し、コンクリートで再建された天守閣が見えます。
その東側に、旭川。この川、宇喜多秀家が築城した時代には、別のところを流れていた、という。なるほど。ここで今一度地理院地図、治水地形分類図だ。
この図には、旧河道も水色の横縞々で描かれています。これから妄想するに、当時の流路は、この旧河道の部分、つまり、北東から南西へ流れ、岡山城の東へ流れていたのではないか。
宇喜多秀家はその流れを現在の流れに付け替え、岡山城の東の守りにした。そういうことか。新しい河道を掘る際に出た残土を、岡山に盛って、新しい城の基礎とする。そして、石山の西側に旭川の流れを引き込んで内堀とする。これで石山と岡山に築かれた城を旭川と内堀で取り囲む工事が完成。
そんな宇喜多秀家の想いが、地理院地図治水地形分類図から読み取れるではありませんか。想像なので、間違うちょったらごめんなさい。
岡山城は、今まで幾度もたつくりに来ちょったので、新しい発見には期待しちょらんかったのですが、次から次へと現れる衝撃の真実が、面白いやら面白いやら。
宇喜多秀家が関ヶ原に敗れた後、寝返りの功で小早川秀秋がやって来て、岡山城に入城、改築。その際に築いた石垣が、宇喜多秀家時代のよりもザッとしちゅう、という話などは以前にも書きましたが、まだまだいっぱい興味深いことがあります。
コンクリートの天守閣を反省し、古い歴史をきちんと掘り起こして検証し、展示していく近年の姿勢に好感が持てる、岡山の城。