大槌島の樽伝説〔4839〕2016/07/15
2016年7月15日(金)薄曇り
今朝は、早朝から会社で一仕事し、営業朝礼を済ませてから本州へ。
いつものように車で坂出まで行き、駅前の駐車場に停めちょいて、マリンライナーで岡山。そして、新幹線で、今日は、神戸。
写真は、瀬戸大橋を渡るマリンライナーから撮影した瀬戸内海。美しい瀬戸内海。与島を通過しながら東の方向を撮影。与島の隣の小与島に、瀬戸大橋ブームの頃にリゾートホテルであった、あの建物が。
で、その向こう。海から富士山のように突き出した、島。あの島、気になりませんか?
いつも、讃岐の山らしい風景だな、と、気になる島。あれは大槌山。
おさらい。
讃岐には、讃岐富士と呼ばれる飯野山をはじめとして、あんな形状の山がたくさん。あと、五色台のような台形状の山も、たくさん。
その成り立ちは、同じ。幾度も、このにっこりではご紹介してきました。
8000万年~9000万年前に形成された領家帯の変性帯である花崗岩の層。その層に、1300万年~1500万年前に火山活動の溶岩が貫入し、花崗岩の上に硬い硬い安山岩が乗った層が、できた。
で、その厚い層が、1000万年以上の時間の間に風化侵蝕してできたのが、あの独特の山容。
上部の安山岩が硬いので、上が残ろうとする。そんな状況で風化すると、台形の山になる。地学ではメサと、呼ぶ、五色台のような山。それが更に侵蝕すると、富士山みたいな形状になり、地学ではビュート。もう、知ってますよね?にっこり読者の皆さんは。
でだ。
あの大槌山も、ビュートなんでしょう。瀬戸内海の海底から富士山のように屹立する、山。
あの大槌山の真ん中に、香川県と岡山県の県境があるんだそうですね。
ウィキによりますれば。
あの島界隈は、優良な漁場。で、讃岐と備前の漁師さんが、古くから集まっていた。藩政期、岡山藩と高松藩の間で領有権争いが勃発し、享保十七年(1732年)、幕府の勘定奉行が裁定を下したのだそう。
それによると。
元来の領有権を確定させうる証拠は、なかった。双方の国の漁師さんが、それぞれの海域で採れた魚介類を幕府に献上していた。島の位置は讃岐寄りであるが、島の北側斜面には備前の人が切り拓いた畑がある。
などの理由で、島の真ん中に両国の境目を設けることになった、という話。
このところの、国際的仲裁裁判結果をどうするこうする、という問題になっている南シナ海の島々の領有権も、うまく解決したら良いのにね。難しいもんだ。
さてさて。
皆さん、瀬戸大橋が架かる塩飽諸島の、岡山と香川の県境が、一番北端の、櫃石島と本州の間にある、というのはご存知ですよね。非常に、香川県に有利な県境位置。ほとんどの島が香川県ですきんね。
何故こうなったか、という話には、有名な伝説があります。樽流し伝説。ご存知の方も多いですよね?
あるとき、大槌島以西の島々の境界を定めよう、という話になった。で、菅野彦九郎という人物が、あの大槌島から樽を流し、その流れた所を境界にしよう、と発案する。幕府立会いの元、大槌島から樽を流した所、一番北の海峡を流れてしまい、それが国境となった、という伝説。
彦九郎が事前に実験し、予想していたのとは大きく違う結果となったので、彦九郎はそんな提案を後悔した。まったく、讃岐の人は悪知恵が働く人間たちだ。
と、いう伝説がまことしやかに語られるようになった訳だね。しかし、どうやら、これは真実では無く、あくまでも伝説にかありません。
まあ、ホントの話がどうであれ、そんな伝説の元になった、讃岐と備前国境の島が、あの大槌島。
無人島。しかし、周辺は、今も良い漁場。大槌島。