南与力町の、穴〔4786〕2016/05/23
2016年5月23日(月)良いお天気。
初夏。良いお天気の月曜日。一年で一番過ごし易い季節かも知れない。
ここは与力町。高知市中心部。我々が子供の頃は南与力町で、今も、町内会は南与力町町内会。藩政期前半、土佐藩の家老職であった乾家の与力が、この界隈に集住していたので、与力町。
この乾家は、板垣退助さんの乾家とは違うので、ご注意を。
その乾家が、6代藩主に山内豊隆がなった直後、封禄を激減させられ、その後も家勢は衰えてゆく。
以前、その時代のことを、農地開発限界による武家社会財政問題と社会構造の変化として書きました。そう。社会構造が大きく変化していた時代。その時代に、歴代土佐藩主のなかで一番評判の悪い豊隆さんが藩主となったのは、乾家にとって悲運であったのか。
古い城下の絵図(住宅地図)を見ると、この時期に、居住者総入れ替えのようなことが起きている。乾家の与力たちは召し放され、新たな権力者の関係者が、ここに住むようになったのかも知れません。
ここには、ひまわり乳業の本社がありました。今は南国へ統合し、本社と工場が一緒になっておりますが、つい数年前まで、ここが本社。
こんな感じでした。
この2009年の写真の、外階段の下辺りが、今日の写真。ここに深い深い穴が掘られ、何やら工事が行われている。
ここの標高は、地理院地図によりますれば1.6m。鏡川などが運んできた土砂が堆積したところに、盛土、埋め立てで整地された、土地。藩政期初期、城下町建設の際に整地されたのでしょうか。そんなことで、地盤は、ゆるい。
更新世に形成された固い地盤は、と言いますと、この場所では20mくらい堀さげた界隈にあるにかありません。なので、この写真の穴は、沖積層の土砂の地層だ。
ここには病院ができます。その工事が本格化しようとしている風景。
人工透析で有名な病院でして、大量の水を必要とします。そこで調査した結果、出ました。水。豊かで清浄な、水。
そう。昭和21年、ひまわり乳業がここに工場を建てたのも、豊富な井戸水に恵まれちょったきやと思われます。なので、当然っちゃあ、当然。
洪積層(更新世に形成された固い地盤)の地形を見ると、高知城の山から東へ、そして南東へと舌状に伸びる尾根が見えます。その尾根と、筆山の方の地盤との間に、谷。
その谷は、丁度この北側界隈に切れ込んでいます。水は、その洪積層の上を山から流れてきているのでしょうか。洪積層の谷間を流れる谷水が、工場の水として、また、人工透析の水として利用されるようになるのでしょうか。
この、沖積層の穴は、そんな諸々を想像させてくれる。
上にも書いたように、ここは、中級武士がたくさん住んだエリア。その場所をこれっぱあ掘ったら、たぶん、藩政期の遺構や遺物はどっさり出たでしょうね〜。民間の工事でなく、公共工事であったら、埋蔵文化財の調査が行われ、往時の中級武士の暮らしを考える貴重な遺跡になったのかも知れません。ひょっとしたら、藩政期中期頃の社会構造変化を、居住者の変遷や異物から想像できるようになったかも知れない。
文系人間が理科を考えると、こんな風に、なる。