津山線と八つ墓村と山中鹿介〔4737〕2016/04/04
2016年4月4日(月)高知は雨やったけんど、岡山は曇りじゃわあ
雨の月曜日。今週は雨が多い予報。今週末まで、桜が散らずに残ってくれることを祈るばかりの月曜日。
そんな月曜日、汽車に乗っております。JR津山線。快速ことぶき号。良い名前だ。今日のお昼に津山でお仕事。写真は、津山線、牧山駅を通過する快速列車の車内から撮影した車内と車外の風景。
昔、今から30年ちょっと前、この駅の界隈の桜がきれいであったのを見た記憶があったので、撮影してみました。今も桜、なかなか美しい。
岡山県津山市。中国山地の中にある盆地に開けた街、津山。古くから栄えちょります。
岡山県の山間部、と言いますと、我々世代、どうしても横溝正史の世界を連想してしまいますよね。いや、ホント。
特に津山で思い出すのは、津山事件を題材にしたと言われる「八つ墓村」だ。映画化もされた「八つ墓村」。あの映画は、なかなか良く出来ておりまして、何度か観ました。
実際の津山事件をリアルに題材にした映画は「丑三の村」でしたが、「八つ墓村」のインパクトはやはり強烈。私、最初は映画を観て、後になって小説を読んだので、ストーリーや設定がかなり違っていることを知ったのは、小説を読んでから。
山陰の雄、尼子氏の忠臣たち8人が、逃亡先の百姓たちに陥れられ、惨殺されたというのが発端の「八つ墓村」。
そして、戦後間もなく岡山の山中の村で発生した連続殺人事件。金田一耕助が活躍する訳だが、そのラストシーンは印象的でした。結局、この事件で亡くなったのは、8人。中国山地の山中で惨殺されたという8人の尼子配下の落武者の霊が高笑いする、というラストシーンは、映画だけの演出やったのでした。小説のラストは違います。
尼子氏の忠臣と言いますと、どうしても思い浮かべるのが山中鹿介。「八つ墓村」も、山中鹿介を中心とする尼子十勇士の活躍と悲劇が、その作品の発想の大元にあるような気がしてなりません。
山中鹿介。山中鹿之助とも書かれたりしますが、とにかくすごい人物だ。しかのすけ。
戦国期、毛利に攻め込まれる尼子氏にあって、若い頃から有名武将を一騎打ちで討ち取るなどの武功を挙げ、獅子奮迅の活躍をする山中鹿介。
尼子氏が毛利に敗れて後も、尼子残党を率いて何度も幾度も尼子氏再興を図り、かなりの戦果をあげ続ける武将、鹿介。軍が背走する際には、必ず殿(しんがり)を務め、追走を許さない。
尼子再興のために「願わくば我に七難八苦を与え給え」と三日月に祈ったという逸話は、江戸時代になって、講談などの名場面として有名になった。
こないだ、広島県の鞆の浦へ行きました。歴史民俗資料館からの風景と鞆の浦の海をご紹介しましたが、あの小さな港町の観光案内図を見ておったら「山中鹿之助首塚」というのがあって、驚きました。
日本史マニアのJr.2号と一緒に、なぜ、ここに山中鹿之助?と訝りながらも、お参りしてきたのは言うまでもありません。
山中鹿之助さん、尼子家再興のために、追い詰められても追い詰められても、しぶとく何度も勢力を盛り返して毛利を慌てさせた。しかし、最後は信長に見捨てられて、備中の阿井の渡で、毛利軍の刺客によって殺されちょります。阿井の渡は、現在の高梁市。その首塚が、なぜ、鞆の浦にあるのか。
調べてみますれば、備中松山城で毛利輝元の首実験を受けた後、鞆の浦に送られた、とあります。その当時、足利義昭が鞆の浦に滞在中で、その首実験に供するため、とウィキに書いちゃありました。
しかしその後、尼子残党が哀れんで首を掘り出し、庄原市の徳雲寺境内に埋葬して供養した、とも書いちゃあります。そこにも、首塚。
鹿介の墓所とか供養塔とかは、岡山、京都、鳥取、島根、広島にどっさり作られちょりますね。鹿介の凄さを、皆、知っていた。なので、各地に作られた。
日本史マニアのJr.2号とよく話をするんですが、NHK大河ドラマで主人公にしてもらいたい人物。まずは長岡藩の河井継之助。そして、山中鹿之助。
高知県人としては、ジョン万とか元親と言うところだが、継之助と鹿之助は、その人間の凄さと悲劇性、人生の矜持、ドラマ性などなどから、最適やと思うちょります。
日本史マニアにとって、魅力的この上ない人物。
JR津山線の風景を眺めながら、山中鹿介に思いを馳せる。