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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

武将の矜持、竹村隼人〔4738〕2016/04/05

武将の矜持、竹村隼人

2016年4月5日(火)晴れ!

今朝は高知。昨日の夜の汽車でモンてきました。津山から岡山までは、津山線の各駅停車で1時間半くらいかけて戻りましたが、なかなかの乗客。沿線は桜も美しく、良い風情でした。

で、山中鹿介。やまなかしかのすけと入力して変換すると山中鹿介となりますので、なかなかメジャー。戦国武将人気ランキングでも、かなりの上位と見ました。
戦国という時代は、皆、生き残るのに必死。自分個人の生き残りであったり、家名の生き残りであったり。なので、その行動や考え方は実に合理的。有利と見れば敵とも和睦を結ぶし、裏切る。信長を見ていれば、よくわかる戦国という時代の行動原理。

そんな中、主君尼子氏の再興に命をかけ、しかもかなりの成果を残しながら最後は倒れた鹿介の矜持に、皆、共鳴するのでありましょう。
戦国期、あっちに付いたりこっちに裏切ったり、と、人間性なんかよりも生き残ることで精一杯、てな生き方をした武将も、多い。
しかし、なんとなく腰が据わってない感じがするような人物は、その後、不幸な生涯を送ったり、子孫がなんとなくやりきれないような、爽やかでない家系になったり、となったような気がします。気のせいかもしれないが。

山陰の麒麟児、山中鹿介は、最後に捕縛された際、あまりの有能さに、その能力を惜しむ声も多かったものの、有能さを恐れられて謀殺された、という。そりゃあそうだ。
この人、簡単に自害したりしない。
尼子家再興という目的を果たすまでは、何が何でも生き抜く意思を持っていた。そりゃあ、敵にしたら危険すぎる。

鹿介の長男が山中幸元。
紆余曲折があって、伊丹に住む大伯父の山中信直の元に身を寄せ、そこで成長して酒造業を始める。それを運ぶために海運業も始める。伊丹近在の、その土地の名は「鴻池」。で、幸元は、鴻池新六と名乗る。
大阪へ進出し、海運業を主力にして成長。新六にはたくさんの息子がいて、たくさんの事業を継承していくが、八男の善右衛門くんが両替商として財をなし、鴻池財閥を作り上げていった、というストーリー。
初代鴻池善右衛門は、山中鹿介の実の孫、ということだ。有能な一族。教育が行き届く一族であったのでありましょうか。

武士の矜持というのは、戦国期には、実に貴重。
そんな中、戦国土佐でも、なかなかの矜持を持った武将がいました。竹村隼人。

写真は、南国市の、空港滑走路南側。左端の木々があるところに祠。竹村神社。
竹村隼人は、ここに城を構えて盤踞していた豪族、千屋氏の家老。近所にあった守護代屋敷の主人、細川氏影響下、かなりの勢力を持っていた千屋氏。細川氏が土佐を離れた後は、独立した国人領主と成る。
その千屋氏の勢力圏にも長宗我部氏の力が及ぶようになり、周囲の豪族は、長宗我部方に。

千屋氏の元にも、長宗我部から、恭順を求める使者が訪れた。
千屋氏家老、竹村隼人は、その使者を有無を言わさず切り捨てたのでありました。
その時代に、この場所にあって、長宗我部に逆らうのは凄いことやったでしょう。

紆余曲折はあったものの、その竹村隼人さんの子孫は、今も千屋城のあった場所の近在に住まわれ、竹村神社という神社を建てて、ご先祖様をお祀りしています。

向こうの空には、三日月。
山中鹿介が「七難八苦を与え給え」と叫んだのは、三日月に向かって、でした。武将の思い。矜持。


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