扇状地の水と、台地の固さ〔4726〕2016/03/24
2016年3月24日(木)薄曇り
いや〜、強豪校はやっぱり強かった。甲子園は甘くはない。結果的に点差は開いてしまいましたが、良い試合でした。楽しませてくれた後輩達に感謝します。キチンと、「らしさ」が出せておったと思いますので。次への期待を抱かせる試合でしたね。点差は開きましたが、良い試合でした。負け惜しみではありません。
今朝の写真は、弊社本社棟2階から眺めた三宝山。野市。工場の敷地内を突っ切って走る土佐くろしお鉄道ごめんなはり線の汽車が、のいち駅へ向かって走っています。一両編成の可愛らしい汽車。
会社の東側が物部川。その対岸が野市。香南市野市。
「野」という文字のつく地名は、たくさんあります。かつて「野」がついちょって、今は「野」がなくなった地名も。
こないだ、山田のことを書きましたが、山田も「山田野」と呼ばれる不毛の土地であった、という話があります。洪積台地である長岡台地の上にある山田野は、野中兼山さんによって灌漑が行われるまでは水の便の悪い土地で、荒れた野であった、と言う。
「野」という漢字は「里」に従う。白川静大先生によりますれば、「里」は「田社」で、社のある田んぼの風景が、「里」。ここには、荒れ野という意味合いは少ない。しかし、「野」という漢字には、荒れた野、という意味が込められたこともあったのは間違いないですよね。
「野市」は、これも以前に書きましたが、野中兼山による開発で、荒れ野に市がたつようになるくらい繁栄したので「野市」になった、という説もあるくらい。野市も、地理院地図の「土地条件図」で見てみれば、長岡台地と同じ洪積台地ですきんね。地盤が固くて水はけが良い、農地には適していない土地であった、野市。
12万年も前でしょうか。地球の気温が上昇し、海水面が上昇して、香長平野のほとんどが浅海底になった頃、物部川が四国山地から運んできた土砂が堆積してできた地盤。
いつしか氷期を迎えて海水面が低下し、その堆積してできた地盤を川の流れが開削、扇状地を形成していった。
現在の長岡台地と野市の台地の間の扇状地だ。現在の物部川は、その扇状地の東端を流れ、ひまわり乳業は、その川の自然堤防上にある。
この本社棟のある場所の標高は約13m。
東側の堤防を越えた、河川敷の公園の標高も約13m。
物部川が1万年以内に運んできた土砂でできた扇状地で、意外と標高はあるんですな。物部川の東岸、野市の町へ入ると、標高は20m。これはもう、台地の上。固い地盤の洪積台地の上。
あのくろしお鉄道に乗ってみますと、よくわかります。西岸の、弊社工場の上を通る際には、弊社はかなり下に見えます。が、物部川を渡って野市へ入ると、街並はそんなに下には見えない。地盤の高さが違うから。
そんな訳で、あの大震災以来、地盤が固くて標高もある洪積台地、長岡台地の上の土佐山田や、野市の台地の上の野市などが、宅地としての人気を集めることになりました。
工場は、そこそこ標高がありながらも豊富な水に恵まれた扇状地。住むのは、地盤が固くて標高のある台地の上。なかなか恵まれた立地なのかも知れません。
地理院地図で、標高や土地条件図を見ると、先人への感謝の念が浮かんで参ります。