里山に、ひとり〔4701〕2016/02/28
2016年2月28日(日)晴れ
良いお天気。明日から3月かと思いきや、今年は閏年で明日が2月29日。3月は明後日から。なんか、1日得したきになりますよね。
そんな日曜日。昨日は四国山地主脈の深山をたつくってきたので、今日は高知市の里山にしてみました。
里山。集落に隣接し、古くから、そこに生える樹々が住民の燃料に使われたり肥料に使われてきた、人々にとって無くてはならない山、里山。
高知市近郊の山々、随分とたつくって来ました。南嶺は縦走し、たつくりまわってきたし、五台山も縦走完了。小高坂山もたつくってきたし、介良富士、蜂伏山は幾度たつくったことか。その北側の高天原山も、許可を得て、山頂尾根を縦走しました。
北山も、尾根部分のスカイラインは走破したし、正蓮寺から白木谷への縦走もやりました。
しかし、まだ、幾箇所か、たつくってない里山もあります。その一つが、布師田の山でした。布師田駅の北西に、横長く寝そべる山。布師田は、その地名からもわかるように古い古い土地。その集落の里山として、古くから利用されてきたに違いない、連山。
もう、明後日から3月。藪漕ぎシーズンは、もう、あとわずか。よし、行ってみよう!
てなワケで、連山の西端から攻めてみました。地理院地図を見ると、トマトで有名な徳谷から登っていく道がある。土佐一宮駅の東側ですな。それを登ると標高85.3mの、連山西端のピークがあります。一気に駆け上がってみました。しかし。
頂上手前に、木製のフェンス。入り口には真新しい金色の南京錠。歩いてでも、入ることを拒否するような毅然とした雰囲気まんまん。仕方ないので、今一度、来た道を下って徳谷。ぐるりと南側へまわり、石淵という地区から、津波避難路として整備された石段を上がってみることにしました。どんどんどんどん登ると、お墓がたくさん。そのお墓を抜け、更に登ると、頂上。なんのことはない。普通に、行けました。北側を見下ろすと、さっきのフェンスが見えます。なんだったのだろうか。
それはともかく、そこから尾根を東へ縦走。これが、なかなか楽しゅうございました。
道はあるのか無いのか。道があったような痕跡はあるのですが、素晴らしい藪や竹やぶなどが繁茂して、蜘蛛の巣も。理想的な藪漕ぎ道だ。誰にも会うことのない、山の中。
写真は、西から2番目の、85mのピーク。頭にタオルを巻いちゅうのは、藪漕ぎルックなんですね。ああしちょかんと、色んなものが降ってきたりバラに引っかかったりして、のうが悪いがです。
そんな藪道を東へ走ると、尾根の方向が北東に変わり、上り坂になります。それを駆け上がると、突然、広い整備された山道へ出ました。今までの道を考えると、まるで高速道路のよう。
どうやら、一宮東小学校の辺りから、ハイキングコースとして整備されちゅうがですね。知りませんでした。
藪漕ぎではなくなりましたが、その山道を駆け上がって標高168mのピーク。眼下に、山を切り開いて造成しゆう広いスペースが。工業団地、こんな所につくりゆうがですね。成る程。
で、そのピークから、刑務所の南側の尾根へと降りました。その尾根には、尾根の地形を利用した中世から戦国期のお城「金山城址」があります。堀切や曲輪、詰の段、ニノ段、三ノ段の地形などが見事に残り、素晴らしい城址だ。
詰の段にある説明書きの一部を書き写してみよう。
「城主は細川氏の末流と伝えられる石谷民部少輔 源重信で、後に長宗我部元親に降伏して執行宗朴と名乗り、一宮にある土佐神社の神職になったといわれています。その後元親は当城を久武内蔵助に与えたと伝えられています。」
土佐で石谷と言えば、元親の奥さん。明智光秀の妹の子、とされるのが斉藤利三で、その実の兄が、母の再嫁先の石谷光政の養子となって石谷頼辰。その石谷光政には娘がいて、その娘が、長宗我部元親の嫁さん。そんなこんなで、本能寺の変は、長宗我部元親に対する信長の態度急変と、光秀一族の立場、思いが入り組んで発生したものである、という説もあります。
そんな石谷氏。
岡豊城から目と鼻の先に見える山に、石谷氏の城。しかも、最初は敵対しちょって、後に降伏する。なかなか事情は複雑だ。
真相は、よくわからない。全然違う真相が隠されちゅうような気もします。
金山城の立地は、岡豊を本拠とする長宗我部氏にとって、とんでもなく重要であることが、城址に行ってみて、よくわかりました。
そんなこんなも楽しみながら、葛木男神社さんの脇へまたまた呼ぶを漕いで下り、国分川沿いを走ってながおか温泉。
良い日曜日でした。里山でも、十分、スリルとサスペンスを楽しめます。