高野寺、遍路、辺地、へち〔4688〕2016/02/15
2016年2月15日(月)晴れ
風が寒くなってきました。明日は冷え込む予報。気温の落差が激しいので、風邪ひかんように気をつけんといけません。
ここは、高野寺。大橋通り商店街を南へ、中島町の通りを左折してすぐのお寺さん。子供の頃、この前を毎日通って追手前小学校へ通いよった小生にとって、非常に馴染みの深い風景。
高野山真言宗 遍照山 高野寺。
高野寺という名称から、真言宗であることは瞭然。この見慣れた本堂は、戦争で焼けた後、昭和39年に完成したそうです。なるほど。物心ついたときにはもう完成しちょった訳で、この風景が脳裏に焼き付けられちゅうのですね。
真言宗のお寺ですが、札所ではない。四国八十八ヶ所の霊場ではない、真言宗の名刹、高野寺。
縁起を見てみますと、ここが開創されたのは明治16年。
明治初年に高野山金剛峯寺塔頭、上蔵院が全焼したので、それをなんとか再建しようと上蔵院主の原信頂和尚が諸国を遍歴、土佐に来た際に、廃仏毀釈運動による土佐の寺院の惨状を見て、土佐での寺院の建立を発願、板垣退助さんの邸地を譲り受けて開かれた、とあります。
土佐の廃仏毀釈運動も、酷かった。
国家神道と天皇制による支配を目論んだ新政府のやり口は、今になってみますと、かなり酷いものもあったと言わざるを得ない。で、大衆を、政府のやり良いように、扇動してゆく。
廃仏毀釈運動からの復興としてできたお寺が、板垣退助邸跡地に創られた、というのも、偶然ではない事象でしょう。
ところで、お遍路さん。
ここは、札所ではないので、お遍路さんは、来ません。基本的に。
お遍路さんは、四国八十八ヶ所霊場を巡る人のことを言うので、熊野詣でとか伊勢参りとか金比羅参りは遍路とは言わない。
今のような札所の成立とお遍路の流行は、江戸時代になってから。それまでは、修行僧が、空海の修行を辿ったりするものから、様々な形態があったものと言われちょります。
で、古代、四国は辺地。へぢ。そう呼ばれ、辺地を回るのが修行であった時代。お遍路という呼び名も、その辺からきちゅう訳ですな。
へち。
高知で「へち」は、普通に使います。「別の場所」みたいな意味。
「オマンクへ向かいよったつもりが、トットへちへ出てしもうてよ〜」といった使用方法の言葉、「へち」。この「へち」は「辺地」からきちゅうのかどうかは知りませんが。
この「へち」、調べてみると、どうやら土佐の方言だ。結構便利に使いますな。場所以外の「違う」という場合にも使います。
「こらこら、仕事中に、そんなへちのことしよったらいかんが。どうしよらあよ、まっこと。」のように。
四国が辺地と呼ばれよったことと、土佐弁に「へち」があるのとの関連性は、誰か調べたことあるんでしょうかね。
高野寺さんとは関係ない話ですが・・