大篠歩道橋〔4664〕2016/01/22
2016年1月22日(金)曇り
少し暖かい朝。この週末は強烈な寒波が西日本にもやってくる、という予報。そうか。冷やいのか。
昨日、歩道橋の話を書きました。その中で「一番影の薄い」歩道橋などと、失礼なご紹介をした、吾岡山の北側の歩道橋を、今朝は撮影してきました。「大篠歩道橋」というのが正式名称ながですね。なるほど。
この右手は吾岡山。こっから北へ行くと、大篠小学校。その小学校の児童たちのことを考えて作られたがでしょうか。現在は、あまり利用されてない感満載の、歩道橋。
大篠という名称は、「大そね村」と「篠原村」の両方を合わせた地名、ということでしょう。元々は大篠という名称はなかったと思われる。「大そね」の「そね」は、この写真の表示板にある文字を書きます。特異な漢字なので、ネットには書けない。
平安時代中期に書かれた和名抄には、大曾(おおそね)郷と出てくる地域の中心地。いつからこんな漢字が使われるようになったのだろうか。
大そね。中世には、八木氏という豪族が城を築いて支配しちょったにかありません。
この吾岡山の南東側。今はもう、何の痕跡も残らない場所。ホノギ名として「城」とか「東堀」とか「土居ノ前」とかが残るので、そこが城(居館)の中心部であったことが推測できるのみ。
いつも走る、介良から南国市田村へとつながる県道。その県道と、サニーマート南国店様の南側の道との間に「城」というホノギが見えます。
伝承では、岡豊城の出城、とのこと。つまり、長宗我部氏の勢力圏内ということ。戦国期の武将は八木八郎左衛門。
今、ホノギ図とgoogleマップを見比べておるのでありますが、わかりますね。田んぼなどの区割り、地形が、昔のホノギと一致しちゅうので、よくわかる。で。「城」というホノギの場所も、完全に特定できます。なるほど。今は田んぼだ。本当に何の痕跡も残らない八木城址。
吾岡山は、元々の標高は63.5m。高知空港の拡張にともない、山頂部をカットせんといかんなって、今は少し低い吾岡山。
山の南側には巨岩があり、急な斜面。その急斜面の中腹に鎮座ましますのが熊野神社。天正3年(1575年)、長宗我部元親さんが、土佐を出て国外へ出兵するに際し、必勝を祈願して紀州熊野神を勧請してきたもの、とされます。藩政期には三所権現。明治になり、神仏分離の影響で熊野神社と呼ばれるようになりました。
ともあれ歩道橋。
この歩道橋、実は、会社から走って帰る際に何度も渡ったことがある、愛着のある歩道橋なんですね。階段を上がったところの足元に河童の絵が描いちゃありまして、こっち向いてお辞儀しゆうがです。つい、こちらも同じようにお辞儀をしてしまうのであります。毎回。皆さんも、一度上がってみてください。お辞儀、してしまいますきに。
この歩道橋も、たぶん、作られてから40〜50年経過すると思われます。頑丈なもんだ。
南側が山なので、あまり通る人も居ない歩道橋。西も東も、信号はちょっと離れちょりまして、歩道橋を渡らんと、遠い。
まあ、頑丈で残っちゅう限り、ここは歩道橋があってもマギらんかな、などと贔屓してしまう、そんな愛着のある歩道橋。大篠歩道橋。