乾家の与力と40mの杭打ち〔4605〕2015/11/24
2015年11月24日(火)快晴!
夜明けとともに晴れ上がりました。快晴。
昨夜は雨。で、今朝、家を出る頃は、まだ雨の余韻が残り、空には雲が立ち込めて星を見ることもできん状況でした。が、それからみるみるうちに雲が晴れて、快晴。心地良い朝となりました。
さて。
昨日は、和歌山からモンて来ました。汽車で。
いや〜、遠い遠い。和歌山県も、南の方は大阪からかなり時間がかかりますので、グルリと回って来んといかん高知からは、結構遠かったです。帰りは爆睡した汽車の旅。
で、写真は、今朝4時頃の与力町。高知市中心部の与力町。右端の、灯りが点いちゅう建物は、ポエムさんというコーヒー屋さんの焙煎工場。夜中から焙煎作業を行うので、こんな時間にも灯りが点いちゅう、という訳だ。ご苦労様です。
その左手。鉄骨が空高く立ち上がってきました。こないだ、10月5日のにっこりで、基礎工事の模様をお届けした工事現場。9階建てのビルができるがやそうです。なるほど。
そのにっこりにも書きましたが、藩政期初期にこの界隈に住んでおったのは磯村さんか久米さん。しかし、享和元年(1801年)の絵図では、萩ノ源五郎さん。その間、土佐藩では激変があったのであります。
そう。こないだ11月19日の「乾の大墓と財政再建」に書いた、農地開発限界による武家社会財政問題と社会構造の変化。その影響があったのか、単に6代藩主山内豊隆さんの独断であったのかは謎だが、宝永南海地震の直前、宝永四年(1707年)に豊隆さんが藩主になると、高禄の家老職であった乾家の当主、乾時和さんは、1000石まで俸禄を減らされ、中老職へと貶められたのでありました。
その乾家の与力が集団で住んでおったのが、この界隈。なので南与力町と呼ばれ、現在の町名も与力町。その与力たちも、その、乾家失脚に伴い、召し放された。
上に書いた、磯村さんや久米さんは、乾家の与力であったのか。萩ノさんは、新たに権力を得たどなたかの与力であったのか。そんな妄想が暴走する。
ところで。
こないだ、南与力町町内会の神祭で飲みよりましたら、あの鉄骨の新しいビルの話になりました。何でも、基礎の杭を40mの深さまで打っちゅうとか。なるほど。
最近、杭打ちデータの改竄などの話が出ます。地下の地盤と杭打ちの深さの関係は、実に重要なんでありますね。
40m。
これは、地学的に申しますれば、十分な深さでしょう。
この界隈は、鏡川の自然堤防もしくは後背湿地、という土地になります。鏡川が運んでくる土砂が堆積した沖積平野。その、堆積した土砂の下に、洪積世に堆積した固い地盤があります。その洪積層が、ビルの杭を打つに際しての基本地盤になる訳だ。固いので。
高知市内は、かなり緻密にボーリング調査が行われ、その洪積層の地形は、かなりわかっちょります。
それを見ますれば、与力町は、筆山と大高坂山(高知城)の間に古浦戸湾から切れ込んでくる谷の斜面に位置します。はりまや橋界隈が谷底で、今の海水面から言うとマイナス30mくらい。
この写真の場所、与力町は、その谷に下っていく斜面なので、マイナス20〜30mということになる。なので、40mの杭は、必要十分である、と考えられる訳ですね。いや、小生は土木素人なので、間違うちょったらゴメンナサイ。
ちなみに、その、洪積層の地形図を眺めていますと、興味深いことが判ります。
高知城のある大高坂山。Googleマップの地形図とかで見ますと、西の、小高坂山の方から連なる連山の先っぽ、みたいに見えます。
しかし、洪積層の地形図では、北の、愛宕山の方から連なる尾根の先っぽなんですね。
大高坂山と小高坂山の間には、先ほど書いた、古浦戸湾から切れ込んできた谷が、ずうっと入り込んできちょります。
言い伝えでは、小高坂山と大高坂山の間に中高坂山という山があり、高知の城下町を建設するに際して、その中高坂山を切り崩し、その土砂を湿地帯である城下の埋め立てに使うた、という話もあります。それが本当とすれば、中高坂山は、小高坂山や大高坂山、筆山、愛宕山のような基盤岩でできた山ではなくて、川の流れでできた自然堤防が発達したものであったのかも知れない。
基盤岩でできた山やったら、そんなに簡単に切り崩してしまう、ということは有り得なかったでしょうから、この妄想は、正しいかも知れません。間違うちゅうのかも知れません。
連休明けの朝っぱらから、地学ネタで申し訳ございません・・