竹取の翁の仕事〔4602〕2015/11/21
2015年11月21日(土)晴れ!
「四國偏禮道指南」という本がある。
この中の漢字の「偏」は、本当はぎょうにんべんなんですが、表示できんといかんので、これにしました。これで、「しこくへんろみちしるべ」と読みます。
貞享四年(1687年)に、眞念さんというお坊さんが書いた四国遍路のガイドブック。当人も、10〜20度は四国遍路をし、後から遍路にまわる人々の為に、丁寧かつ便利なガイドブックを著したんであります。これは便利やったでしょうね、当時としては。初版が出された後も、何度も改訂版が出版されちょります。
江戸時代になり、一般人の四国遍路が盛んになる以前は、行者や修行僧が、「辺地」を廻っていた遍路。それが邊路となり、偏禮となり、現在の遍路となった。
さて。
その本を読んでみましょう。27番札所神峯寺から28番の大日寺へ向かう部分。
手井村 山中に村有
手井浦みなと町有
此間 小川 やす濱
きしもと村
あかおか村
町過て橋有
のいち村しるし石有
大たに村
廿八番 大日寺 山上 堂は南向 かがみ郡大谷村
今朝の写真は、その、「大たに村」の南側。山の位置は変わらんので、眞念さんの時代、つまり17世紀から、お遍路さんはこの界隈を通って大日寺に向こうておったんでありましょう。
写真のように、この山裾は、竹藪。
近年、竹藪が広がって通常の山林部分を侵食することが問題になったりします。竹害、という言葉もあるくらい。で、バイオマスとして利用するとか、色んな活用方法が検討、実施されている、現代。
では、昔はどうだったのか。
そこで思い出すのは「竹取の翁」。かぐや姫を発見したおじいさんだ。
彼は、竹を取って、何に利用しようとしていたのか、考察してみよう。昨日は桃太郎やったので、今朝はかぐや姫、という訳だ。
そこで紐解くのが、昨日もご紹介した岩波新書の「村ー百姓たちの近世」という本。著者は、京都府立大学の水本邦彦先生。これは面白い。
新田の開発が急激に進んだ江戸時代初期、主たる肥料は、里山でつくられた草肥であった。当時の百姓間の争い事の原因ナンバーワンは、草地に関するものであったことからも、その重要性がよく解る。
農地に近い山は、伐採されたり火入れされたりして草地と化され、それが「里山」であった。そんな時代。究極のクローズドシステムとして、全ての資源が効率よく利用され、また、再資源化も行われていた時代。
そんな時代に竹の役割は。
「村ー百姓たちの近世」には、こう書いてあります。
「雑木林や竹藪は、家屋の建築・修築や、生産資材製作の原材料となり、囲炉裏・竃、風呂焚きの自然燃料源となる。とくに竹は多様な用途が開発され、文化的にも欠かせない資材となった。」
そう。竹の用途は多彩で、貴重な資材であり燃料であった、竹。
竹取の翁は、そんな生活資材業者であったのか。
どちらにしても、山は、特に里山は、人の手が入りまくった場所であった。江戸時代の、農村部に近い山々は、今からは考えられないくらい、人工的な山であった、と言えるのであります。
使えるものは、全部、使い切った時代。
江戸時代、この山裾をお遍路さんが歩いた風景も、実は、今とは全然違うものでありました。たぶん、この右手の竹藪の山は、肥料にするための草が植えられた草山であったのではないか。
古来、現代ほど、山を放置して樹木が生えるに任せている時代は無いかも知れない。そんなことを考えながら、昔からの遍路道を眺める、朝。