松渕川〔4598〕2015/11/17
2015年11月17日(火)曇り
それにしても気持ち悪いくらい暖かい日が続きます。写真は今朝、4時半の松渕川公園ですが、小生もイデタチもワイシャツのみ。上着を必要とせんような、朝。まあ、我々飲料メーカーにとっては、秋が暖かいのは良いこと良いこと。
さて。
松渕川公園。高知市本町の南端、与力町の北側にある、公園。戦後になって、公園として整備された松渕川公園。その名称は、この公園の南側を東西に流れていた用水路「松渕川」に由来します。
松渕川は、西の、中島町、八軒町を囲むようにあった逆U字型の池から流れてきて、この東の堀詰の通りで北に折れ、堀詰で堀川に流れ込んでおりました。
一番古い正保土佐国城絵図(1644年)を見てみますと、松渕川がクッキリと描かれちょります。で、西の逆U字の池があり、その池は、西から水路が流れ込んできちゅう。そうか。水通町の水路は、結局、松渕川までつながり、堀川になって浦戸湾へと流れておった訳だ。
正保絵図を眺めておりますと、この高知の城下が水の都であったことがよくわかる。
と、申しますか、かつて縦横に水が流れる湿地帯に、その水の流れを活かした形で城下町が建設された、というのが正しいと思います。堀川も松渕川も水通町も、全部、城下町建設以前の地形の痕跡である、というのが、正しい認識だと思う訳です。
さて。
この松渕川公園の場所は、藩政期にはもちろん武家屋敷があった訳だが、明治になり、芝居小屋が建てられました。高知座。
高知座は、太平洋戦争まで存在したにかありませんので、結構な期間、高知市民の娯楽の殿堂が、ここにあったことになります。
松渕川の畔の演劇空間。
明治になってつくられた有名な芝居小屋はもう一つ。堀詰劇場。今のトーエイパーキングの辺りでしょうか。やはりここも水辺の演劇空間。
江戸時代は、地方には、なかなか常設の芝居小屋などは作られなかった。神社などに宮芝居がかけられたりするのが通常形態でした。
遠く江戸ではどうだったのか。
やはり、寺社境内や門前の盛り場で、芝居がかけられたりしよりました。大都市の中でのそういった空間は、網野史観によりますれば、一種のアジールのような性格を持ち、非日常空間を楽しむ場が形成されていたのではないか。
そして、水辺、橋の袂の広小路などに、たくさんの芝居小屋が並んで江戸の庶民の娯楽のメッカとなっていたことは、よく知られるところ。それは、中世から続く、河原や橋が持つ「無縁」の性格が継承されたものと言えるかも知れない。
明治になり、高知のような地方都市でも常設の芝居小屋がつくられるようになった。で、できたのが高知座と堀詰劇場。水辺の劇場。
これも、妄想を暴走させれば、中世から続く河原、橋の「無縁」性が芝居小屋につながる、という性格を踏襲したものかも知れない。などと朝っぱらから考えたんでありますね。人間の記憶に刻まれた、そういった感性というものは、なかなか消えないものなので。
いつしか、芝居小屋は映画館にとって代わられるようになり、堀詰劇場も高知座も姿を消しました。で、娯楽の殿堂となった映画館も、今や、高知の市内では愛宕劇場だけになってしまった。
戦後つくられた、この松渕川公園も、以前は子供で溢れ、子供達がそばえまわる公園でした。が、今は、遊ぶ子供もなく、大人たちが寛ぐ静かな空間になりました。時は流れ、風景は変わってゆく。