街角〔4576〕2015/10/26
2015年10月26日(月)良いお天気
今朝は高知。昨日の夜の汽車で、大阪からモンて来ました。昨日は関西地方、木枯らし一号が吹いたがやそうですね。どうりで、結構寒かった。今朝の高知も、結構冷えます。ここは今朝、夜明け前のはりまや橋交差点。
日本には「街角」という言葉があります。「街角」で、どのような風景を連想するでしょうか。これについて、こないだも少しご紹介した、陣内秀信先生の「東京の空間人類学」という本に、面白い考察があります。
まずは江戸時代。
江戸時代の江戸の街。町割りは、基本的に格子状になり、あとは、台地や水路などの地形を取り込んだ街並。で、少し郊外の、台地のエッジや水際に寺社がつくられ、その前が門前町として栄えてゆく。
広場は、川に架かる橋の橋詰界隈に、防火、火除け地の意味も込めてつくられ、その広場に芝居小屋などが立ち並んで庶民の賑わいを見せたのでありました。
西洋の都市は、街路の外観、統一性が重視され、遠近法を利用した美しい統一感のある街並が好まれ、権力者は、そんな都市を計画し、建設した歴史があります。で、広場は、その都市の中央部に、主要な公共施設、教会などに取り囲まれるようにつくられた。そこには、象徴的な塔のあるような建物が建てられ、ランドマークともなっていた、そんな街。
明治になり、西洋式の都市計画、建築が日本にも導入されるようになりましたが、西洋式の、街中の広場がつくられることはありませんでした。
その代替となったのは、交差点の広場であった、という話。
上に、江戸の町割りは格子状、と書きました。そう。なので、角は、斜めに切られておらず、角は直角に曲がっておりました。これには絶対的な理由があります。税金。
江戸の税金は、その店の間口の広さに対してかけられちょったとのこと。面積ではなく。間口に税金がかけられる、となると、間口に対して面積が一番広くなる形状を、当然、みな、目指す。四つ角を斜めに切ったりしたら、面積に比して間口が長くなり、課税が重くなるので。
なるほど。
明治になり、税金が面積にかけられるようになると、そのような制約はなくなりました。で、銀座四丁目の交差点などのように、交差点が広場の代わりとなり、人々の集う場所、シンボリックな場所となっていったのでありました。
塔や時計台などは、西洋では、中心部に計画的につくられた広場を取り囲む場所につくられましたが、日本では、交差点につくられた。銀座四丁目交差点の服部時計店のように。当時、たくさんの、名所となるような塔や時計台がつくられたのは、交差点でありました。
そして。交差点は、広場の役目を果たしておりますので、広場に面する部分、つまり、角を斜めに切った部分が正面のようになったのであります。
もちろん交通事情の変化もあり、角は斜めの方が流れが良い、ということもあったでしょう。大きな都市の都市景観、ということもありました。
そんな訳で、交差点にできた主要な施設の入り口が、交差点に面した斜めの部分となり、そこで人々は待ち合わせをしたりするようになりました。
そこで生まれたのが「街角」。
日本人にとって「街角」は、そんな、待ち合わせをするような賑わいのある場所なんですね。
写真は、はりまや橋交差点。
向こうに見えるのはパチンコ屋さんの建物。あの建物の形状は、高知県人にとって既視感があります。とでん西武も、その前の土電会館も、あんな形状でした。土地の形があんな形なので、建つビルも、同じような形状になるのでありましょうか。
土電会館の正面入り口も、あの、斜めに切られた部分でした。街角。
あそこが百貨店とバスターミナルで、高知の街の、一つの中心であった時代。
高知の街の中心はどこですか?と尋ねられ、はりまや橋交差点です、と答えていたのは、ここが重要な交通結節点であると同時に、賑やかな「街角」であったからなのか。
「街角」。良い響きだ。高知の街中に、「街角」という呼び名にふさわしい「街角」が、たくさん有ったら楽しい。そんなことを考える、夜明け前のはりまや橋交差点。