蚊居田氏と地形〔4557〕2015/10/07
2015年10月7日(水)快晴!
秋晴れ。これを秋晴れと言わずして、何を秋晴れと言うのか、というくらいの秋晴れ。涼しい朝になりました。
さて。昨日、自然地形と都市計画について書きました。江戸の街は、じつに巧く自然地形を利用して計画され、構築されちゅうのはご承知の通り。で、現在の東京の街も、江戸の都市計画の大きな影響かにある、と。これはもう、東京の街を自分の足で歩いてみたら、しゅっとわかります。洪積台地の起伏と低地平野の組み合わせ。
しかし、高知の城下は、洪積台地ではなくて低湿地、三角州のような土地につくられたので、起伏がない。なので、自然地形と都市計画の関連は、ちくとわかりづらい。ですが、昨日の考察のように、城下町に張り巡らされた堀川や水路は、建設以前の自然地形を利用したのかも知れません。
今朝は、南国市里改田の蚊居田城址に来てみました。高知空港から西へ行った、琴平神社の山の東側の平野。高知空港界隈には、ご存知田村遺跡。田村遺跡は、弥生集落としては全国的にみても細大規模というもので、おびただしい竪穴式住居跡が発掘されちょります。
その、弥生期の集落は、物部川の自然堤防上に展開されました。地形を利用した集落。
空港滑走路のしゅっと北側の、田村遺跡のことを書いた説明板のある公園。その界隈、地理院地図で標高を調べてみますれば、現在は8mくらいあります。その東、物部川の旧河道があったと思われる界隈は5.5mくらい。田村遺跡から南へ、滑走路の南側の標高は6〜7mくらい。ここも自然堤防上だ。
戦国期、長宗我部氏や本山氏、一条氏など、戦国七雄と呼ばれた有力者がおりました。それに次ぐ勢力を「四大封」と呼び、昨日も書いた現在の高知市堺町界隈の国沢氏、土佐町から出てきて筆山などに城を築いた森氏、そして南国市の千屋氏と、蚊居田氏の四氏。
で、田村遺跡南部の、滑走路に沿うような場所に本拠を置いちょったのが千屋氏で、上に書いた標高6〜7mのところになります。自然堤防の上。なので、物部川の氾濫や津波には、比較的強い。
地学的に見ると、自然堤防の、河川の反対側には、「後背湿地」と呼ばれる低地が形成されることが多いんでありますね。他所から流れてきた水が、自然堤防に阻まれて進めなくなって溜まり、湿地帯となる。
千屋城から西へ行くと、そんな後背湿地があったのでありましょう。南側も、地理院地図で見るとかなり低い土地になっちゅうので、湿地帯であったのは間違いない。広大な、ラグーン。
写真は、そんな湿地帯であった界隈を撮影しました。標高は3mくらい。
写真中央の小さな森。そこは、湿地帯の中の城、蚊居田城址。蚊居田氏は、上に書いたように四大封のひとつに数えられる有力豪族。その本拠は、広大な湿地帯界隈につくられ、その名も「沢城」と呼ばれました。
蚊居田氏は、何故、そんな場所を本拠としたのか。
ここからはいつもの妄想だ。
湿地帯というのは、不便に見えて、かなり防御に優れちょります。ヴェネチア共和国が、あんなに小さいのに1000年も繁栄を続けることができた一つの理由に、周囲がラグーンであったことが挙げられます。強力な艦隊が攻めてきても、ラグーンに阻まれて近づけない。
蚊居田城も、湿地帯に囲まれちょったとすれば、騎馬などで近づくのは難しい。足を取られてモタモタしている間に、矢や鉄砲でやられてしまう。そんな防御に優れた城であったのかも知れない。
早くから長宗我部氏と姻戚関係を結んだ蚊居田氏。
しかし、ここから東へ2kmの千屋氏は、最終的には長宗我部氏には下ったものの、かなり抵抗しちょります。つまり、千屋氏と蚊居田氏という二つの有力豪族は、2kmの距離で、対立しちょった時期がある、ということだ。双方存立できたのは、間に湿地帯があったからかも知れません。妄想です。
蚊居田氏、長宗我部元親、盛親時代には、当主の蚊居田修理が有力家臣となり、浦戸城の奉行になったりしちょります。藩政期、そして今は、どうしているんでありましょうか。