奥谷南遺跡は鬱蒼とした草叢の中〔4547〕2015/09/27
2015年9月27日(日)曇りのち晴れ
昨日、南国・香美・香南酪農振興大会のことを書きました。そのバーベキューには、実に懐かしい、素晴らしい方が参加されちょったので、ビックリ。その方は、以前、南国市長岡で酪農業をやっておられた宮崎さん。昔、大変お世話になりました。今は悠々自適の生活とのことですが、なんと、御歳90歳。シャッキで、ビールを飲んで焼肉を食べておられました。定評のあったトークのキレはそのままで、見事な滑舌。いや、すごい。
若い頃、満州で過ごした宮崎さんは、帰国してから酪農業を営み、それこそ高知の酪農を引っ張ってこられた人物。お元気な姿に感動しました。
そんな訳で、今日は長岡へ行ってみとうなりまして、最終ゴールをながおか温泉に定めたランにしました。
そのまんま長岡へ走っても、そんなに距離が稼げんので、あちこち色んな所に寄りながらのラン。22km走ってきました。心地良かった〜
中の島の自宅から高須、県立美術館の前を北上して、一宮へ。土佐神社でゆっくりお参り。良い神社です。土佐神社。
で、そこから逢坂峠へ。昔の国道32号線。標高59mの峠を越えて下ると、南国市岡豊。旧国道のある界隈の標高は10mちょっとくらいなんですね。地理院地図で全部わかるので、便利。ちなみに、高知大学医学部、大学病院のある界隈は8mちょっと。
さて。岡豊へ来たら、寄っちょかんといかんのが、ここ。奥谷南遺跡。奥谷南岩陰遺跡とも言います。高知では最古級、旧石器時代から縄文早期にかけての、遺跡。
こないだ、佐川の不動ヶ岩屋遺跡をご紹介しましたが、あれよりも何千年も古い遺跡。
高知自動車道の工事で、岩陰の部分は埋められてしまい、8mの巨岩が残るばかり。
写真は、その巨岩のてっぺん。あまりにも鬱蒼として、近づきがたい感じ。Tシャツに半パンという姿では、なかなか。なんとか雑草を掻き分けて岩の上まで行ってみましたが、羽虫にたかられて、あまり長居はできませんでした。残念。
ここに最初に来たのは2011年4月。その後、2013年1月にもご紹介しちょりますが、あの時は冬で、見晴らしも良かった奥谷南遺跡。
地理院地図で見てみますれば、この岩がある場所の標高は30mばかし。
ここで見つかった最古の石器は、20000年前のもの。20000年前と言いますと、最終氷河期であるヴュルム氷期で、海水面が一番低かった時期ではないか。今よりも100m以上も海水面が低かった氷河期。その頃、ここに暮らした人々。
すごいですよね。現生人類がアフリカを出てから、数万年。もう、こんな場所でも人が暮らしていた。氷河期で、海水面が低く、陸地が多くなって移動がしやすかった時代。今より気温が低く、こんな鬱蒼とした植生ではなかったでしょう。
南向いた斜面の岩陰で、彼ら彼女らは、どんな暮らしをしていたのか。縄文時代中期になり、温暖化が進むと、不動ヶ岩屋と同じように、ここに人たちも居なくなってしまう。
たぶん、獲物や木の実を求めてどんどん北へと移動していったのでありましょう。
この岩はご覧のようにチャート。石器の材料に適した、硬い石。生物化石。この界隈、不動ヶ岩屋のような石灰質の土壌ではないので、人骨などが発見されることは難しいかも知れない。獣骨でつくった武器や道具もあったかも知れないが、酸性土壌で溶けてしもうちゅうでしょうね〜。
向こうに大学病院が見えます。
以前、あの界隈が海であった時代があったかも、なんてことを書きましたが、標高8m以上あれば、縄文海進でも海ではなかった。湿地帯であったかも知れない。しかし、見える山々は、今も昔も同じ姿であったでしょう。植生は違っても。
そんな20000年前に想いを馳せながら、ここから岡豊山へ。大学病院の向こうに見えゆう山。あの山の山頂まで駆け上がり、南の国分川沿いに下って、遍路道を走って国分寺さん。そして長岡へ。
ながおか温泉につかり、沖うるめを食べながらビール。ああ。極楽極楽日曜日。