知寄町、道路、既視感〔4523〕2015/09/03
2015年9月3日(木)雨
よう降ります。ええ加減にして欲しいくらい、降ります。今朝、布団を被らずに寝よったら寒さで目が覚めたくらいの気温。う〜ん。なんか、残暑が厳しくないぞ。日本全国、稲刈りができんで困っちゅう農家さんも多いんではないでしょうか。これからに期待しましょう。
写真は、今朝、雨の降る知寄町。右手に見えるのが知寄町3丁目の電停。この向こうが葛島橋になります。
その信号の南北に新しい道路もできて、市街地につながる町みたいになってきたエリア。この北側が小倉町で、南側は青柳町。
しかし、ほんの少し前、例えば昭和51年国土地理院発行の1:25,000地図を見てみると、この南の青柳町は、広大な四角い湿地帯。四方を池で囲まれた田んぼが見えます。
元々は海。そして湿地帯。ラグーン。
藩政期になり、塩田として開発されたと言います。なので、下知村と言われる前は潮田村であったそうだ。土佐郡潮田村。元和の頃、つまり、まだ大坂の陣が終わったばかりという藩政期初期に、その開発が始まったと言います。大坂の陣で豊臣方が破れ、長宗我部盛親も居なくなった、ということで、土佐でも、腰を落ち着けた内政の充実が始まったのでありましょうか。
戦乱の世が終わり、人々の生活を充実させていく為のインフラ整備が始まったのが、この時期。そんな時代の空気感の中で、弥衛門の丸に名前が残る山崎弥衛門(潮江庄庄屋)さんを始めとして様々な民間人が開発に参加。十郎兵衛潮田、藤右衛門潮田、茂右衛門潮田などなどができたと言います。
今朝、そんな土地を貫く電車通りを走っておりまして、突然、既視感に襲われました。車の車線変更の途中。
そう。こうやって、センターラインの破線を跨ぐ、この風景。ああ。
昔、デパートの屋上とかにあったゲームコーナー。もちろんコンピューターなどの無い時代。アナログの、色んな遊具があった時代。
小生が小学校高学年の頃、華やかであったのが、あの、ピンボールというやつですな。流行りました。家の近所に、自宅の納屋を改造したような小さいゲームコーナーができて、そこにも並んじょりました。ピンボール。
そして、必ずあったのが、運転ゲーム。
何と説明したら良いのかな。ピンボールと同じような長方形の匣体。で、道路の絵を描いたロールが延々とまわっていく。その道路の上におもちゃの自動車が置いてあり、手元のハンドルで操作して、道路から外れないように運転する、というゲーム機。
で、あれは、真ん中にセンターラインがあり、突起物があって、その真ん中の突起物を踏まないように運転すれば高得点が出る、という仕組みではなかったか。
既視感。
既視感というのは、その、センターラインを跨ぎながら運転する、という風景だ。この写真のように。
あのゲーム機、今もあるのかな、と思うてネットで調べてみたら、ありました。愛知県犬山市にあるという日本ゲーム博物館。こんなのがあるんだ。
で、そのホームページの「所蔵ゲーム」というコーナーで、そのゲーム機と、それで遊んでいる映像が観れるのでありますね。その映像が、これ。すごい。
ここに所蔵されちゅうのは「ミニドライブ」という機械。点数制で、最後までクリアしたら500点、というものでした。調べてみたら様々なメーカーが色んなバリエーションで作りよったにかありません。
小生の記憶にあるのは、前面の得点ボードに、日本の地名が書いてあったもの。スタートがどっかの都市で、ゴールが東京やったような記憶が。東京が憧れであった時代ですきんね。
確か、大阪とか名古屋とかがあって、突然なぜか浜松があったような。何故、大都市に挟まれて浜松があるのか不思議に思ったという、古い記憶。間違うちゅうかも知れませんが。誰か覚えておいでであればご教示ください。
昔、ゲームがのんびりしていた時代。なんか、良い時代に見えてきます。
雨の早朝道路で突然襲ってきた既視感から、こんなことを思い出して調べてみました。