地球33番地はここと言うたらここ〔4509〕2015/08/20
2015年8月20日(木)薄曇り
なんか、週間予報では、傘のマークが散見される感じ。なんか、感じ悪いよね〜。まだ8月ですきんね。かああ〜!っと晴れて欲しいもんです。
さて。
写真は、今朝、4時半頃の一文橋。
電車通りの、宝永町の交差点から北上した、江ノ口川に架かる橋、一文橋。以前はもっとずっと小さい橋でした。そもそも、南北に、今のような道路が通ったのはいつ頃やったでしょうか。小生の感覚で言えば、結構最近。
宝永町は、もっとずっとごちゃごちゃした町で、狭い道路が入り組んでおった。そこに、広い南北道路がつくられたのであります。
一文橋は、藩政期、渡るのに1文かかる有料の橋であったので、一文橋。いわゆる賃取り橋。藩政期には多かった賃取り橋。
民間の人が自費で架橋し、その維持管理のために有料にした、というケースが多いにかありませんが、この一文橋もそうやったがでしょうか。
今から50年前、国鉄祖谷口駅前の吉野川に架かる橋は、個人が架橋した橋で、まだ、有料であったことをこのにっこりでもご紹介しちょります。
さて。以前考察したことがありますが、1文は、藩政期中期では現在の25円くらい、後期になって10〜15円くらいになり、5円くらいになった、という説もあります。インフレが進んでおるんですね。
江戸時代のそばが二八蕎麦というのは、二八の十六で、一杯16文であったから、という話を落語に出てきますな。時蕎麦。それで考えると、まあ、そんな感じか、というくらいの値段でしょうか。
写真は、その一文橋の上から東を撮影したもの。こんなに美しいことになっちゅうとは知りませんでした。そう。地球33番地のモニュメント。
そもそも。高知ロータリークラブによって北緯33度33分33秒、東経133度33分33秒が地球33番地である、と提唱され、平成5年には高知県によって、モニュメントが建てられた、というもの。
北岸から歩いて行けるようになっちゅう、川の真ん中のモニュメントですが、こんなにライトアップされちゅうがですな。知りませんでした。モニュメント上部には33の数字が表示され、川面に浮かび上がる風景。
ここが地球33番地である、と提唱され始めたのは昭和37年頃。江ノ口川が地獄のように汚かった頃。真っ黒い、異臭の強烈な川、江ノ口川。その当時であったならば、川の真ん中にモニュメントを建てようなどという発想も浮かばんかったでしょう。建てても、そこまで行く勇気のある人はおらんかったでしょうき。それっぱあ汚く、臭かった。
昭和47年に高知パルプが操業をやめ、それから徐々にキレイになってきた江ノ口川。モニュメントが建った平成5年頃は、もう、随分とキレイになっちょりました。
美しい33番地モニュメントですが、以前にも書きました。実は、緯度経度の基準が「日本測地系」というのから「世界測地系」というのに変更になり、現在の基準である「世界測地系」では、地球33番地は、今の昭和小学校の南側界隈になるのであります。ああ。
しかし突然そんなこと言われてもね〜、ということで、高知県人にとっての33番地は、ここ。そういうことにしちょくがです。その方が、みんな、幸せになれるので。世界基準がどうであれ、誰がなんと言おうが、ここが地球33番地。
と、いうことで、川面に浮かぶ美しいモニュメントが地球33番地なのだ。