慶応三年、真夏の夜の夢〔4503〕2015/08/14
2015年8月14日(金)晴れ
こないだうち、あんまり猛暑やったもんで、このところ涼しゅうに感じます。日中も32℃くらいなら涼しゅう感じる今日この頃。人間の感覚というものは、なかなか臨機応変にできちゅうもんです。
ここは今朝、5時過ぎの鏡川。潮江橋と天神橋の間の北岸。東の方角をズームで撮影してみました。夜明け前。
このにっこりでは何度も何度も書いてきましたが、今から148年前の今頃。夏の盛り。この鏡川河畔は、大変なことになっちょりました。たぶんこの様な夜明け前の時間には、河原には酔うたんぼがゴロゴロ。大騒ぎの夜の果て。
慶応3年夏。つまり1867年夏。つまり幕末も幕末。大政奉還が慶応3年10月ですき、その直前。
そもそもの始まりは7月初旬であったと言います。西暦で言うと1867年8月の始め頃。
大阪から商売でやってきた男達が、高知の暑さに耐えれんと言うて、鏡川の河原に酒肴を持ち出して飲み食いを始めたのがきっかけと言う。
で、宿の夫婦や娘とかも、それに連られて縁台を持ち出し、飲み食いを始める。で、大阪者が、京の踊りはこんなんや、と踊り始めたのを見た土佐人が、負けておれんということで踊り始め、日に日に人数が増え、その人間目当てに出店が増えてきて、賑わうようになった。出店は、「料理屋・支度屋・すし屋・うなぎ屋・楊弓・のぞき・うつし絵を始とし、諸菓子類は申におよばず。」という感じ。
そんな風景が宇佐、真覚寺住職静照さんの日記や、「慶応三年鏡川夜涼みの図」というのに描かれちゅう、という話を以前も書きました。
「のえくり」と「大仏踊り」。
どんどんとエスカレートする夕涼みは、数百軒の出店、河原を埋め尽くす群衆、川面には夥しい屋形船、という様相になり、夕刻4時頃から深夜まで、河原は大宴会場と化したのでありました。夜、10時〜12時くらいがピークと言いますき、なかなか遅うまでやりよったもんだ。
で、興奮状態の群衆が踊る踊る。
前の人の腰に手をかけ、数十人、多い時には数百人がつながってクネクネと踊りまくるのが「のえくり」。田舎風の踊りに京踊りの要素を取り込んだ踊りが「大仏踊り」。これは輪になって踊ったようで、様々な歌詞をつくって歌い、踊る。
そんな騒動は、秋まで続いたそうです。つまり、大政奉還の後まで。
「慶応三年鏡川夜涼みの図」によりますれば、不思議なことに、喧嘩狼藉などは全然無かった、とされます。また、遊女などは取り締まったものの、その他を役人が取り締まった形跡がない。こんな幕末の不穏な時期に、大勢の群衆が集まったというのに。
どちらかと言えば、経済効果などが注目され、肯定的に捉えられちゅう雰囲気が満々。1日1500両の金が使われた、とあり、1両が現代の貨幣価値1万円とすれば1500万円。今のように資本主義経済が発達していなかった当時、この金額は凄まじいものかも知れない。
これとほとんど同じ時期。慶応3年夏から秋にかけて。
東海道に始まって畿内、関東、中国、そして四国地方でおこった大衆的狂乱「ええじゃないか」。
「ええじゃないか」と鏡川河畔の「のえくり」が、まったく同じ時期であるのは、興味深い問題ですね。
上に書いた、鏡川河畔の大騒ぎのそもそもの始まりは、宇佐、真覚寺住職静照さんの日記によるもの。人からの伝聞が情報源。静照さん、まだ、ええじゃないかの日本的大流行は知らんかったと思われます。
ひょっとしたら、県外で「ええじゃないか」を体験してきた者が、土佐へ帰ってきて土佐風にアレンジし、始まったものかも知れない。他国で流行るものを、そのまんま取り入れることを良しとしない土佐人が、ここにおったのかも知れません。
そう読み解くと、上の、大阪からやって来た商人が「京の踊りはこんなもんや」と言って踊ったのは、ひょっとしたら「ええじゃないか」ではなかったか。
で、それを見た土佐人が、他所と一緖じゃ面白うない、ということで独自にアレンジを始め、それが「のえくり」「大仏踊り」と、酒池肉林の大騒ぎにしたてていったのではないか。
そんな気がする夏の朝。
148年前。
真夏の夜の夢。