焼畑、切畑〔4502〕2015/08/13
2015年8月13日(木)涼しい朝
曇っちょります。昨日は久々の雨で、気温も上がらんかったですね。なんか、よさこいが終わった瞬間に気温が下がると、ちょっと寂しゅうなります。
まあ、今日はまた暑うなるという予報ではあります。まだまだ高知の夏は続いてもらわんと困りますな。
さて。ここは今朝の野市、上岡の集落。古い家が取り壊され、新しい家が建ち始めている風景。
洪積台地の端にある集落、上岡。その向こう側は、台地の下になるので、数メートルの段差があって下がっちょります。
古い集落なので、立派なお屋敷も多い上岡ですが、最近、建て替えなども目立っちょります。一昨年12月10日の竜巻では、かなりの家が、屋根瓦を吹き飛ばされたりしました。そんな事情もあるのでしょうか。
しかし野市界隈は、高知でも珍しい人口増加地帯。高知市に近い上に、海抜が高くて地盤が固い。今はなかなかの人気になっちょります。ので、こうやって、古い家が取り壊されても新しい家が建つ。そんな野市。
こないだ、旧池川町の奥の奥、椿山のことを書きました。とんでもない急斜面にある、平家の落人伝説に彩られた山間の集落。眼前に集落消滅の危機を迎えている、定住人口一名、という椿山。つばやま。そこでは、昭和50年代まで焼畑が行われておったと言います。焼畑が主たる産業であったこともある、椿山。
今朝は、この写真とはまったく関係のない、高知の焼畑について。
焼畑は、土佐では切畑とも言います。山林を切り開き、焼いて畑にするので切畑。
手元の、昭和51年高知新聞社発行「高知県百科事典」を見てみましょう。それによりますれば。
この農法は、農耕開始とともに始められたと思われる。で、中世の頃には土佐全域で広く行われよったことは、文献にあるそうです。
で、戦国末期の長宗我部地検帳には、山間部はもとより海岸部の山まで、切畑が分布しちゅうことが認められる。当時、土佐の山は山林資源というよりも食料資源であった、ということにかありません。山間地の人々が食べていくための主たる手段、焼畑。なので、課税も少額であった、とあります。なるほど。
で、藩政期。
最初はそれまでのやり方を踏襲するも、延宝2年(1674年)になって、切畑の検地を行い、年貢を大幅に増加させる、という政策に変換したと言います。これはですね、藩としては切畑を制限し、森林資源を増やそう、と考えた訳だ。その方が、藩としての財政が潤う。しかし農民は、そんなものでは食えないので切畑をやろうとする。そのせめぎ合いが幕末まで続くのでありますね。
この辺の山の社会学は、知っちょく必要がありそうだ。
藩政期中頃までの焼畑は。
まず、林地を伐採焼却。で、そこにアワ、ヒエ、ソバ、麦、エンドウ、サトイモ、ダイコン、大豆、小豆を3〜5年栽培し、また林地に戻す、というのが一般的やったにかありません。藩政期中期になって、作物にトウモロコシが加わって切畑風景が一変した、と言います。
で、藩政期が終わり、明治になっても同じように続きますが、明治20年代にミツマタが導入され「全県下の切畑に革命的な変化」が起きたのでありました。土佐の山間経済に重要な役割を果たすことになったミツマタですな。製紙原料の。折しも、木材資源の重要性も増加。
で、食料作物ーミツマター植林というサイクルが確立し、焼畑経済は最盛期を迎えたのであります。
これが土佐、山間部の焼畑。
しかし、戦後、産業構造や経済状況の変化で、アッという間に切畑は廃れて行きました。
この、昭和51年発行の高知県百科事典には「吾川郡池川町椿山等に一部残っている」と書かれちょります。そうか。この本が書かれた頃は、まだ、あの椿山で焼畑をしておったんだ。椿山での焼畑風景の写真が掲載され、それにはNHK提供と書かれちょります。
なるほど。
新日本紀行かなにかで、紹介されちゅうがですな。そのアーカイブ、どっかにある筈なので、見てみたいもんだ。
椿山の斜面には、家々がたくさん、へばりつくように並んじょります。しかし、人が生活する、という意味での集落は消滅の危機を迎え、焼畑も、遠い昔に廃れてしまった。
こないだ、椿山に手紙を届けにきたおばちゃんの話では、もっと下の方のある集落で、焼畑を復活させてやりゆうところがあるよ、とのことでした。
それを生業にする、というのは、もう、無理な時代になったのでしょうか。大変な、山の暮らし。