池川天明逃散事件〔4489〕2015/07/31
2015年7月31日(金)晴れ!
暑いっすね。
昨日は、お昼から夕刻まで松山で業界の寄合い。そして懇親会。その後、二番町界隈に飲みに出ました。今治風の、鉄板で焼く焼き鳥のお店。美味しかったです。今治風焼き鳥は初めてでしたが、これは、うまい。ビールと焼酎と今治風焼き鳥を堪能した松山の夜。
で、高知へイニよります。昨日と逆のコースを車で。久万高原町の役場のある久万の町から、岩屋寺の方へ向かうと、しゅっとのところに大宝寺さんがあります。昨日ご紹介した、池川の大逃散事件で池川、用居の600人余と名野川120人が逃げ込んだという大宝寺。久万の町の近くですき、結構、遠い。大きなお寺さんで良かったら、岩屋寺の方がずっと近い。当時の松山街道を通れば、伊予に入って最初の大きなお寺さんは岩屋寺。しかし、何故か、大宝寺さんまで逃げております。
この逃散事件、大宝寺住職の調停で、無事収まったのであります。この人数が準備もアテもなく逃げる、ということは考えられんので、最初から大宝寺の住職が関わっておったのではないか。しかもこの人数が、ぞろぞろと歩いて数十キロ。途中、藩の境も越えて。役人はどうしておったのか。
なかなかに謎の多い逃散事件。
ここは池川。旧池川町の街中。池川川に土居川が流れ込むところ。その河原へ降りていく道の途中で撮影しました。
この道を河原まで降りていくと、昨年11月18日にご紹介した、種田山頭火さんの句碑があります。
山のよろしさ 水のよろしさ 人のよろしさ
池川の印象は非常に良かったようです。
その句碑の少し上にある、この説明板。「天明逃散集合の地」。
そう。昨日ご紹介した大逃散事件では、池川・用居の601名が、この河原「安の川原」に集合して、逃散を決行した、ということです。
ん?
用居は、こっから松山街道を伊予方面へ進んだ、国境に近い村ではないか。それがわざわざ池川まで戻って、集合。なるほど。
逃げ込んだ先は久万の大宝寺。
松山街道を進んだのではないな、これは。ここから大崎方面へ下り、仁淀川沿いを北へ。名野川から逃散参加の120名を加え、仁淀川に近い、しかし当時はそんなに目立たんルートを通って大宝寺へと向こうたのではないか。この説明板を読みながら、そんな推理をしてみました。それにしても、暑い。
ところで、昨日の椿山。平家の落人が住みついてできた集落、とされる椿山。つばやま。椿山神社があって、太鼓踊りなどが奉納される、と、「高知県の地名」という昭和59年に発行された本に書いちゃありますが、今もあるんだろうか。
「青年以上の男子多数で、浴衣に編笠をかぶって両手の撥でたたき、歌いつつ踊る。歌は念仏踊・敦盛踊など二十一あり、平家の落人が都をしのんで始めたものといわれる。」
青年以上の男子が多数、椿山にも住んでおった時代。
昨日、手紙を配達に来ちょったおばちゃんの話では、この椿山川のカニは、その向こうの赤いサワガニと違い、白いそうです。それを平家蟹と呼ぶ、とおばちゃんの話。平家は赤で源氏は白なので、どういう経緯でそうなったのかは謎だ。
しかし、そんな平家の伝説、言い伝えは、これからどうなっていくのか。伝えられていくのか。そんなことを考えさせられる、美しい椿山でした。