椿山〔4488〕2015/07/30
2015年7月30日(木)晴れ
今日も朝から暑い夏空。良いお天気です。
今日は、愛媛県の松山市で業界の寄合い。この季節、業界寄合い、多いですね〜。そんな訳で、早朝、会社で一仕事済ませてから車で松山へ。
早く出発して時間があったので、大好きな、藩政期の松山街道ルート。現在の仁淀川町、旧池川町の役場のところから用居を通って愛媛県の美川へと抜ける道。今は国道494号線。高知と松山を結ぶ道は国道33号線なので、今は通る車もほとんどない、美しい山間の道。
池川の集落からは、土居川という川に沿って上ってゆきます。くねくねの、とても国道とは思えないような道。所々に、山の斜面にへばりつくように集落。この界隈、切畑、つまり焼畑が古くから行われてきました。あと、紙漉き。いずれにしても貧しい山村で、天明7年(1787年)には大規模な逃散事件が起こっちょります。
土佐藩は紙の専売制を布いてきましたが、宝暦10年(1760年)に専売を廃止。割り当ての御蔵紙以外の紙(平紙)の販売を自由化したのでありますね。これで、山村は、なんとかやっていきよった。ところが、天明5年(1785年)に平紙の買い上げ問屋を京屋常助一軒だけにしたのであります。こうなると競争原理が働かんので、買い叩く。紙の価格が下がり、紙漉き農家が疲弊、貧困を極めたと言います。
で、天明7年、池川、用居で600人以上、名野川で120人という大規模な逃散が発生。皆、伊予へ逃げ、久万の大宝寺さんに逃げ込んだと言います。
これには藩も困った。
で、藩主は、全面的に紙漉き農家の要求を聞き入れ、落着。これほどのことをして罰せられんかったのは、よほど、状況が酷かったのと、藩主の英明さによるものと思われます。
さて。
今日は、その街道の途中、百川内というところから、土居川に流れ込む支流、椿山川に沿って遡ってみました。国道から分かれた狭い道を車でくねくね走ること15分。もう、とんでもない山の中。突然森が途切れ、山の斜面が明るくなって家々が現れます。急な斜面にへばりつくような集落。家の数は十数軒は見えます。椿山。つばやま、と読む、古い集落。
斜面が急で、なかなか農耕もできない。焼畑で、大昔から細々と生計をたててきた、山奥と言うにもあまりにも奥の、椿山。
人は何故、こんな奥の、農耕にも不便な土地に住み着いたのか。
椿山には、平家の落人伝説があるのであります。
平知盛、教経、教盛、時子たちは、安徳天皇を奉じて土佐へ逃げ込んだ、というあの伝説。で、阿波から三嶺の下の久保、西熊山を通り、本川郷を抜けて、椿山へ。四国山地の背骨を通ってきちゅ訳だ。
椿山に先導した平家一門の滝本軸之進という人物が、椿山氏の祖となって住み着き、ここに椿山という集落ができた、という伝説。
もちろん安徳天皇たちは、ここから椿山川、土居川を下って横倉山へと進んだのであります。
椿山。
昭和50年代まで焼畑をしておったと言います。家の数も多い。
集落を撮影して帰ろうとしよったら、一台の車が上がってきましたので、乗っちょっったおばちゃんに話を聞いてみました。
何と。
家はたくさんあるのに、現在、椿山に常在しちゅうのは、Nさんというおばあちゃんただ一人、なんだそうです。そのおばあちゃんに、手紙を届けにきたおばちゃんでした。
なんとなく生活感のある家もありますが、それは、普段は池川とか高知とかに住んで、時々戻ってくる人の家やそうです。常在の住人は、一人。ああ。
確かに、このような斜面の家に、高齢者が住んで畑をしたりするのには、かなり無理がある。歴史ある椿山、落人末裔の椿山。これから、どうなっていくのか。
道路を歩いておりますと、とっと下の畑で、蓑を纏ったおばあちゃんが畑仕事をされておりました。この写真、屋根が壊れた廃墟の横の畑。長い歴史を持つ椿山の、現在ただひとりの住人、Nさんの姿。
椿山。つばやま。美しい美しい山。