大歩危の土讃線を眺めながら考える〔4481〕2015/07/23
2015年7月23日(木)高知は雨でした
しかしまあ、へんてこりんなお天気が続きますこと。高知は、まだ梅雨が明けません。しかも、山では結構ガイに降りゆう。
今日は、業界の寄り合いで山口県へ行かんといけません。朝の特急南風で岡山へ行き、新幹線で新山口、という予定で考えちょったのは云うまでもありません。
早朝、出社して一仕事片付けてから、ゆっくりと高知新聞を読んでおりますと。ん?
昨日の午後は、JR土讃線の特急南風が、阿波池田駅と土佐山田駅の間で止まっちゅうではないか。慌ててJR四国のホームページを見てみますれば、いかん。今朝もまだ止まっちゅう。なんということだ。大雨の影響で、特急は阿波池田と土佐山田の間で、普通列車も大歩危駅と土佐山田の間で、運休になっちゅう。そんなに降ったのか。
まだ、時間があるので、香川県の坂出駅まで車を運転して行くことにしました。で、そこからマリンライナーと新幹線を乗り継いで新山口へ。
そんな訳で、今、マリンライナーの車内でこのにっこりを書いております。それにしても、やられたぜよ、まっこと。
さて。
ここは大歩危峡。国道32号線脇の、レストランまんなかさんの駐車場から撮影した吉野川。雨の影響で増水し、濁っちゅう吉野川。この吉野川沿いのルートの道路が国道として開発されたのは明治27年。どんな難工事であったでしょうか。もちろん現在道路がある場所でないルートも多く、もっとくねくねした道でございました。
で、その吉野川沿いに鉄道が開通したのが昭和10年。この写真。対岸の巨岩の上に、土讃線のロックシェードが写っちゅうのが見えますでしょうか。あんな場所に鉄道を作った訳だ。昭和初期に。
土讃線の、この四国山脈の中を走る路線は、今まで、かなり改良改修工事が行われてきました。高知と徳島の県境界隈とか、大杉駅と土佐北川駅の間とか、小歩危駅と阿波川口駅の間とかには長いトンネルが掘られ、昭和10年に建設された路線は、今は痕跡となって残るばかり。また、冬になったら探検してみたい、素敵な廃線跡。
こないだ、日本の鉄道の線路幅について書きました。明治の初期、日本に鉄道が引かれ始めた際、あまり深く考えずに国際的な標準軌である1435mm幅にせず、狭軌の1067mmにした、という話。その後、輸送能力やスピードを考えたら標準軌の方が良いね〜、という議論が巻き起こり、一度は、それまでの狭軌を標準軌に切り替える工事をやって、やりなおそう、というところまで行っちょったと言います。
しかし、それよりも、鉄道の通ってない地方へ延伸する方が先やろう、という議論に押され、白紙に戻り、現在も日本のJRは新幹線を除いてすべて狭軌になっちゅうのであります。
こないだも書いたように、あの時標準軌にしちょったら、もっと日本の輸送時事情は変わっちょったろうに、という意見もあります。
どうなんでしょうか。
この大歩危の線路をごらん下さい。この場所の土讃線は、昭和10年に建設された同じ場所を今も通っております。こんな場所に、昭和の初期に線路をつくった先人たち。
もし、明治後期に標準軌にやり直しちょったら。
予算の関係もあって、土讃線の着工はもっと遅れた可能性が高い。標準軌になると、スペースが余計に必要なので、土地の買収からせんといけませんし。で、トンネルを掘るにしても、一回り大きいトンネルを掘らんといかん。それは、当時の技術水準からすれば、かなりハードルが上がる、ということやったでしょう。こんな場所に、今より広いトンネルや線路をつくる。これは大変。
つまり。
標準軌になっちょったら、昭和10年に、この場所を汽車が通ることはなかった。つまり土讃線は全通せず、高知の人々は、京阪神へ行くのに船を利用するしかなかった、ということか。
そして、以前にご紹介した、土讃線開通記念南国土佐大博覧会は、少なくとも昭和12年に開催されることはなかった。昭和12年を過ぎると、時代は博覧会どころではなくなる。なので、あんな博覧会が高知で開催されることは、なかった、ということになるのではないか。
広い軌道で新幹線が通り、物資輸送の花形が鉄道ではなくなり、現在の鉄道で十分役割が果たせている現在。
この大歩危の土讃線を眺めておりますと、高知の人々にとっては、狭軌のままのこの鉄道で良かったのではないか、と思えてくるのであります。