海軍経理学校〔4480〕2015/07/22
2015年7月22日(水)雨
よく降ります。いいかげんにして欲しいほど、降ります。梅雨のない北海道を除けば、梅雨明けしてないのは、東北地方、北部九州、そして四国だけ。ああ。どうなっちょら〜!
高知県人にしてみますと、去年8月の悪夢を思い出してしまう。まったく晴れなかった、あの8月。そんなことにはならんように祈るばかり。
もう、田んぼの稲はすっかりと頭を垂れ、今週末には稲刈りもあちこちで始まるでしょう。台風が来よりますき、その前に刈っておく、という農家さんも多いんではないでしょうか。
写真は、会社の前の田んぼ。本社屋の西側の田んぼ。もう、こんな感じ。どんよりした梅雨空の下で、稲刈りを待つ田んぼ。
さて。
昨日、海軍経理学校出身の大畠永弘さんのことを書きました。海軍経理学校。この学校に入るのは、こじゃんと難関でございました。
海軍の教育機関といえば、すぐに思い浮かべるのが呉、江田島の海軍兵学校ですよね。秀才でないと入校できない海軍兵学校。で、この、江田島の海軍兵学校、舞鶴の海軍機関学校、東京、築地の海軍経理学校を合わせて「海軍三校」「生徒三校」などと呼ばれた訳だ。どれも難関。
戦前、「江田島」と言えば海軍兵学校で、「舞鶴」と言えば海軍機関学校であったと言います。「築地」と言えば経理学校であったとは聞きませんが。
海軍機関学校は、海軍の機関科の士官を養成する学校。兵学校出身者とは、その出世に差があったと言いますね。結局、機関学校出身の海軍大将は現れませんでした。中将止まり。
海軍経理学校は、主計将校を養成する海軍の学校。調べてみますと海軍兵学校と違い、視力が悪くても入校できるので、本当に難関であった、と言います。
機関学校出身も、経理学校出身も、海軍の華である艦長にはなれんかったにかありません。中将まで出世した方の経歴を見てみても、確かに、艦長は経験しちょらん。
海軍経理学校は、卒業すると主計少尉に任官。元々、生徒の修業期間は4年であったのが、戦争の激化によって段々と短縮、昭和20年3月卒業の三十五期と、その前の三十四期は2年4ヶ月であった、とあります。逆算すると、三十五期が入校したのが昭和17年12月。三十四期が昭和16年12月。
なるほど。昨日の大畠さんは、三十四期の可能性が高い。何故、11月に、海軍経理学校入校を記念した石柱がご寄進されたのかの理由も、これで判りました。なるほど。12月入学であった訳だ。
大畠さんが御真影を持ち出した空母瑞鶴が沈没した、レイテ沖海戦は昭和19年10月。まだ、任官して半年ちょっと。これは少尉であったでしょう、間違いなく。海軍主計少尉。海軍経理学校へ入校した、かなりの俊才であった大畠海軍少尉。
海軍経理学校出身で、戦後、政財界で活躍した人物は、なかり多い。「天才柳沢教授の生活」という漫画がありましたが、あの柳沢教授も、海軍経理学校出身でした。