浮かび上がる人生〔4479〕2015/07/21
2015年7月21日(火)降ったりやんだり
九州、関東甲信は、既に梅雨明けしちゅうのはご承知の通り。で、昨日、中国、近畿、東海が梅雨明けしたという。どうなっちょら〜!
と、言うわけで、梅雨明けした地方に囲まれながらピンポイントで梅雨明けしない高知の朝をご紹介します。どんよりとした空。昨夜も、時折涼しい風とともに断続的に雨が降りました。今朝も、暑くはありません。涼しい朝。降ったりやんだり。ああ。梅雨明けはいつだ。
ここは、会社から北へ行った、南国市福船。田んぼの真ん中に森が残り、その森の中に鎮座ましますのは川原神社さん。明治17年に福船村になる以前は福田村。福田村の川原大明神。福田村には土佐の東西を結ぶ往還が走っており、その東側には野市の深渕へ渡る渡しがあった、という話は以前にも書きました。この神社の森の北側の東西に走る道。農道。これが、嘗ての往還の通っておった場所でしょうか。
さて。この川原神社さんの参道。特徴ある田んぼの中の鳥居をくぐると。左右に石柱。右側に「海軍経理学校入校記念」と刻まれちょります。この裏側には「昭和十六年十一月二十八日」と書かれたプレート。そして、左下の小さい石柱に「献 大畠永弘」。
これにより、昭和16年11月28日、海軍経理学校入校を記念して、大畠永弘さんによってご寄進されたことがわかります。
そこで。
調べてみました。海軍の大畠永弘さん。
この昭和16年11月28日という日付。真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まる10日前。開戦前夜。世の中は、アメリカとの開戦やむなし、という空気で高揚していた、そんな時期。
大畠永弘さんは、愛国心に燃え、海軍経理学校に入校したでしょうか。
ネットで、海軍の大畠永弘さんが出てくるのは、「空母瑞鶴」の最期の場面。
瑞鶴は、戦艦大和などと同時期に建造された日本空母の切り札。真珠湾攻撃などにも参加した、海軍の主力空母。昭和19年10月のレイテ沖海戦で、米軍機動部隊の艦載機爆撃にっよって撃沈しております。
その沈没の際、船に載せてあった御真影、つまり天皇陛下の写真を守るべく運び出したのが、この大畠永弘さんであった、ということ。開戦直前に海軍経理学校に入校した大畠さんは、昭和19年10月には空母瑞鶴に乗ってレイテ沖海戦に参加しておりました。そこで、沈没に際して副長から御真影の運び出しを指示され、担いで海に入って泳いだそうです。
当時は、少尉に任官しておったでしょうか。庶務主任という立場での乗艦でした。
御真影の箱をかついで泳ぐ訳で、非常に泳ぎにくい。それでも、離さず泳ぎ続け、救助を待ったそうです。そこに駆逐艦の「初月」がやってきて、海面に浮かぶ瑞鶴乗組員を救助。しかし、三分の一くらいを救助して、行ってしまいました。絶望の中、また、箱をかついで漂っておりますと、しばらくして駆逐艦「若月」がやってきて、救助されたのでありました。
最初の「初月」は、救助した瑞鶴乗組員を乗せたまま、その日夜の海戦で、アメリカの水雷艇に沈められたそうで、それに救助されておれば、命は無かったと思われます。実に運命の不思議。
その後、大畠少尉がそうなったかはわかりません。
が、ネットで調べてみますと、日本税理士会連合会の「税理士制度70周年記念誌」で発見しました。昭和63年に、黄綬褒章を受章されておることが、その記念誌の資料編に載っております。良かった。戦争を最後まで生き抜き、戦後は税理士さんとして活躍された訳だ。黄綬褒章なので、税理士会などの公的な場所で、税理士業発展のためにも尽くされた、と思われます。
この、川原神社参道入り口の名前から、一人の人物の「人生」が浮かび上がってくる、不思議。