南海地震災害復旧事業、宇津野隧道〔4438〕2015/06/10
2015年6月10日(水)梅雨の晴れ間
雲の間からお日様。梅雨の晴れ間。嬉しい嬉しい梅雨の晴れ間。
さて。
こないだ、潮江の野崎貞美さんという方が昭和36年にまとめた、昭和21年の南海地震後の日記「昭和南海地震の記録」をご紹介しました。この度、生活創造工房さんが、自費で、その記録を冊子にしました。昭和南海地震での、高知市潮江地区の被災状況や復興に向けた住民の皆さんの取り組みがよくわかる、素晴らしい日記。
その日記を読んでいると、色々と知らなかったことが判ったりします。例えば宇津野トンネル。
写真は、今朝の、宇津野トンネル北口。東側の、古くて狭い方のトンネル。
トンネル上の銘板には「宇津野隧道 昭和二十六年三月竣工」と刻まれちょります。実はこの隧道、昭和南海地震の復興事業として掘られたものなんでありますね。知りませんでした。
昭和21年12月21日未明に発生した昭和南海地震。太古の昔から繰り返し襲ってきた南海地震の中では、例外的に規模が小さかったとも言われる昭和南海地震。それでも、高知県下、津波や家屋倒壊による被害は甚大で、人々の生活にも大きな打撃を与えました。
潮江地区は、元々地盤が低く軟弱。地震によって堤防や中堤が決壊し、海から海水が流れ込んできました。そして地盤沈下。
潮江一帯は海になってしまいました。
地元でも、1854年の安政南海地震の際には、3年間、潮江の田は作れんかった、という言い伝えが残されちょったそうで、なんとか、必死の排水、復旧作業を行う風景が、日記には見て取れます。
その頃、宇津野山の南側の横浜、長浜地区と、高知の市街地を結ぶ陸路メインルートは、孕半島の外周をまわる道路。以前、高知新聞社の水上飛行機の基地がある、とご紹介した場所を通るルート。
現在の太平洋セメント横からぐるっと廻ってヘリオス、灘の漁港へとつながる道路。
しかしその道路も地盤沈下してしまいました。
日記を転載しますと、
「長浜方面より旧市へ来る徒歩者は大昔の様に宇津野峠を越えて来る。山の手を廻って高見線を通るより外に道がない。自動車、自転車等は干潮時には戸合の海岸線を通ることが出来るが桟橋通りも外廻り堤防も不通の為、高見の往来は非常に多くなった。」
この「戸合の海岸線を通る」道が、上に書いた孕半島外周の道。
で、その後もその道は、満潮時には危険な状態になる、ということで、新たに宇津野山に隧道を抜く、という計画ができた訳だ。
「南海地震災害復旧費」という政府の資金で作られた、という宇津野隧道。
小生が子供の頃は、この狭いトンネルしかなく、このトンネルを大型バスがすれ違う、激しいトンネルでございました。自転車で通るのは、実に危険やった記憶があります。
このトンネルに並んで、広い、2車線の新宇津野トンネルが開通したのは昭和47年。小生小学校5年生。この古い方のトンネル、南海地震災害復旧事業でできたトンネルは、新トンネル開通後も、南行きの一方通行トンネルとして現役を続行しておるのはご承知の通り。
新宇津野トンネルを建設する際、その工事区間に鎮座されちょった鎮若宮八幡宮さんというお宮さんが、仁井田の仁井田神社さん横に遷座されちょります。
その辺の事情は、2007年12月12日のにっこりに書いちょりますので、ぜひ、お読みになってみてください。
ともあれ。
野崎貞美さんは、潮江で乳牛も飼育され、息子さんは酪農家さんとして活躍、小生が子供の頃は、南与力町の工場に2斗缶で生乳を持ち込んでおられました。子供であった小生、よく可愛がってもらいました。今も元気に、潮江で暮らしておいでです。もう、酪農はやめておられますが。
野崎さんの牛舎は解体されました。しかしその梁の部分は、今も見ることができます。高須の、現代企業さんがやっておられるレストラン「穀物学校」。その天井部分に、立派な梁が見えます。野崎さんの牛舎の梁を移築したものなんですね。
歴史は、いろんなところでつながってゆきます。