成田空港界隈とLCC〔4424〕2015/05/27
2015年5月27日(水)晴れ
暑いっすね。ここ、千葉も暑いっす。
そう。昨日、LCCのJetstarというのに乗って、高松から成田へ飛び、京成電車に乗って都内へ。会合を済ませ、また、京成電車で成田へ戻り、空港近くのホテルに泊まっちょったのであります。朝、4時に起き出して成田空港〜成田山新勝寺〜電車で空港〜ホテルという10kmランをやっつけて、今、成田空港第3ターミナルのJetstar出発ロビーに着いたところ。
LCC。
感想を述べましょう。時間にたっぷり余裕があって、バスや電車や歩くのが大好き、という方には超オススメ、と申しておきます。はい。
バス、というのはですね、LCCで第3ターミナルに到着しても、連絡バスで第2ターミナルまで行かんと電車に乗れませんし、近在のホテルへ行くのも全部連絡バス。そんな立地ですもん。搭乗前後、かなりの時間の余裕を見ちょかんといけませんぜ。
今日は近在を走ったので、かなり、地形や空港の成り立ちが理解できました。ここは、起伏の多い丘陵地帯で、空港周辺の丘陵は木々に覆われた森。成田山新勝寺のある街まで行かんと、人は住んでおりません。ホテル周辺には、とにかく何も無い。
と、ここまで書いたところで搭乗の時間になりました。今は、機内。あらためまして、ちくと狭い。膝の上でPCを広げると、ちくと狭いことが実感できますな。狭いところが大好きな方にもオススメです。
さて。
こなうだうちから何度かご紹介してきた、国土地理院の「土地条件図」というので見ると、この広大な起伏の多い丘陵地形、洪積台地とそれの開削によって形成されてきたことが判ります。成田空港の標高は約40m。なので、洪積世の間氷期、海進が進んだ時期に浅海底になり、その際に堆積した砂礫が、この丘陵群をつくりあげてきた訳だ。
空港ができるまでは、丘陵の合間の低地に農地や牧場などが広がる、のどかな場所であったことがよくわかります。
写真は、空港の北側、取香川が台地を開削した部分。その土手を走る小生が見えますでしょうか。取香川はとっこうがわ。こんな河川がたくさん、台地の合間の低地を流れる、そんな地形が延々と広がります。
ここから成田山新勝寺の方へ走ると、地形は下り。新勝寺の門前町は、空港などの微高地に比べると低い、ひらけた平野に広がります。
新勝寺。
今朝、新勝寺に到着したのは5時前。早朝というのに、早くも団体さんが参詣に訪れちょりました。成田講の皆さんのようでした。すごい。
我々西日本の人間にはわかりにくいですが、東京などでは、車に成田山のお守りをぶら下げるのが一般的。東日本の皆さんには馴染みが深い成田山。
今朝、第2ターミナルから新しくできた第3ターミナルへ歩いてみました。約630m。その真ん中辺り。その通路脇に、夥しい数の人名が刻まれた横長の碑があるのを見つけました。
近寄って見てみますと、「顕彰」と大きく刻まれちょります。碑を建てたのは、新東京国際空港公団。そうか。
「新東京国際空港の建設にあたり その意義を深く認識され 空港敷地の提供に積極的に協力されたかたがたの功績はまことに大なるものがあります。 ここにそのかたがたの氏名を碑にとどめて顕彰いたします」
なるほど。成田空港建設には、本当に紆余曲折がありました。反対闘争が盛んであったあの頃が、つい昨日のよう。小生が東京で大学生をやりゆう時分、まだ、成田空港闘争華やかなりし頃。学内には「三里塚を死守しよう」などと書かれた立て看がたくさんありました。
なるほど。こんな地形の場所で、空港反対闘争をやりよった訳だ。樹々に覆われた丘陵地は、ゲリラ戦にはもってこいの地形やったんでしょうね。
普通、空港に、地権者の氏名を全部刻んだ顕彰碑が建てられることなどあまりありませんよね。成田空港建設の際の事情の複雑さ、難しさを象徴する顕彰碑。
第3ターミナルができるまで、一般の空港利用客の目に止まることはなかったかも知れません。630mの連絡通路なので、歩く空港利用客も少ないですが、それでも通りすがりに見ることができるようになりました。成田闘争の難しさの痕跡。