安岡家住宅、解体修理中〔4409〕2015/05/12
2015年5月12日(火)曇り
まだ、降り始めません。今日の夕刻、台風6号は高知に最接近するにかありません。心配ですが、被害のないことを祈りましょう。
さて。少し風が出てきましたが、まだ、静かな静かな高知県地方。今朝は、香我美町山北の安岡家住宅を撮影に行ってきました。国指定の重要文化財、安岡家住宅。
仏像構造線の南側にある安岡家については、こないだのにっこりでも少し触れました。この安岡家には、ずっと前、伯父に連れられてお邪魔したことがあります。伯父の勤めていた会社の先輩であり、学校の先輩であり、郷里土佐の先輩が、安岡としおさんという安岡家のご当主やったのでありますね。
文政11年(1828年)に建てられた家は、それはそれは立派。家も立派ですが、安岡家からは、優れた人物がたくさん輩出されちょります。そして、寺田寅彦さんの家系とも微妙につながりがあったりして、その辺の事情は、2012年1月20日のにっこりに詳しゅうに書かせて頂きました。ぜひぜひお読みください。なかなか複雑に絡み合う土佐人の系譜。
で、その安岡家住宅が、今、こんなことになっちゅう訳だ。保存修理工事。母屋のあったところは、完全に解体されて遺跡の発掘現場みたいになり、大きなテントがかかっちょります。この写真には写っちょりませんが、この手前の空き地にも大きな大きなテントが建てられちょりますので、その中に、建物の部材が置かれちゅうのかも知れません。すごい。全部解体して、また組み立てるがですな。なかなかオッコウな工事になっちょります。
工事現場の看板には「重要文化財 安岡毛住宅主屋ほか5棟 保存修理工事(第1期)」と書かれちょります。工期は、平成29年6月までと書かれちょりますが、それが第1期とすれば、なかなか遠大な保存修理計画でございます。それっぱあの価値がある、ということ。
2012年のにっこりにも書きましたが、このお家に「文助日記」というのが保存されちょります。藩政期末期のご当主、安岡文助さんの、それはそれは几帳面な、美しい文字が並んだ日記。幕末の貴重な記録やと思いますが、解読研究された方は居るんでしょうかね。
文助さんは龍馬の兄、権平さんと親しく、二人の息子が土佐勤王党で活躍したのはご承知の通り。
兄、覚之助さんは武市半平太の腹心で、戊辰戦争で戦死。そして弟。嘉助さん。吉田東洋暗殺に加わり、吉村寅太郎の天誅組蜂起に加わって、捕らえられて刑死。
天誅組蜂起は、幕末維新史の中での悲劇。
文久3年8月13日、孝明天皇から、攘夷親征の詔勅が発せられ、吉村寅太郎らはその大和行幸の先鋒となって京を出発、大和へ向こうたのであります。しかし、8月18日の政変。公武合体派のクーデターが成功して、寅太郎らの軍勢は梯子を外された形になり、「暴徒」ということになって幕府軍と戦って壊滅した、という悲劇。
吉村寅太郎、那須信吾らと一緒に、安岡嘉助も戦い、捕縛されて処刑されました。
吉村寅太郎は、維新の志士の首領格の中では一番若手の27歳。土佐の津野山、芳生野生まれの庄屋さん。維新の志士としては、土佐では、龍馬、そして半平太、慎太郎ばかりが有名で、寅太郎を顕彰する雰囲気があまりありません。
そんな中、こないだの高知新聞によりますれば、東津野の小学生が修学旅行の途次に東吉野村に寄り、天誅組の顕彰をされておられる地元の史家の方の案内で、吉村寅太郎をはじめとする天誅組とその蜂起について学習した、とのこと。
どなたが考えたのか知りませんが、素晴らしい。こういう、キチンとした取り組みが、郷土への愛着を育てる。その、とてつもない重要性を、どれだけの人が理解しているのか。
そういった意味で、久々に、こじゃんと嬉しいニュースでした。
そんなことが、ホントに大切なのであります。