物部川、深渕、西野、三宝山〔4408〕2015/05/11
2015年5月11日(月)快晴!
良いお天気。ですが、台風が来よりますね〜、早くも。まだ5月というのに、かなりガイな台風がこっち向いて来よります。明日の夜頃最接近でしょうか。被害の無いことを祈ります。
さて。
写真は、今朝の物部川。物部川に架かる旧国道の橋、物部川橋西詰を少し北上した土手の上から、三宝山方面を撮影したもの。今週金曜日に鮎漁の解禁を控えた物部川。まあまあの状況にかありません。太公望お待ちかね、鮎の季節がやって来ました。
三宝山の向こうから朝日が昇ろうとしております。三宝山は、別名金剛山。まさに、金剛山と呼ぶにふさわしい美しい風景。あの西洋風お城のシルエットが美しく浮かび上がっております。
物部川の東岸は、深渕。物部川沿いの、物部川が運んでくる土砂が堆積した河川敷のような広い場所。そこが、深渕。その向こうに段差があり、段差の上、段丘の上が西野。はっきりした段差で区切られちょります。何度も書いてきた、洪積台地の上が西野で、台地の下が深渕。
元々、和名抄などによりますれば、深渕郷は、ずいぶんと広い。現在の深渕はもちろん、西野、大谷、父養寺、母代寺、東佐古、西佐古、それに物部川西岸の立田を含むエリアが深渕郷。
つまり、今、写真を撮る為に立っているこの場所も、深渕郷であった訳だ。
地理院地図で見てみますれば、あの台地の上の標高は20mを超えます。台地の上と下の標高差は5m以上。その標高差は上流に行けば行くほど広がりますね〜。青少年センターの標高は30mで、その西の台地の下が標高20mくらいですき、そこではもう10mくらいの段差になっちょります。
この標高ですき、深渕は、津波に洗われたことは無いでしょう。それよりも、物部川の氾濫、洪水。それによって、延喜式内社である深渕神社も、その場所を変遷してきた、という話は以前にも書きました。
深渕。
藩政期に、深渕には「半四」という面白いおんちゃんが出現し、伝説になっちょります。「どくれの半四」。以前、その伝説については詳しゅうに書きましたので、ご参照ください!
深渕は、鎌倉時代以降、将軍によって中原氏(香宗我部氏)が地頭に補任されたと言います。で、その後、南北朝合戦を迎える訳だが、香宗我部氏は北朝方。ところが、佐伯常貞軍忠状という貴重な南北朝期の資料によりますれば、北朝方の佐伯軍が、深渕の深渕城を攻めて焼き払うちょります。
南国市田村の豪族、入交氏に伝わる文書では、入交氏の一族が深渕河原で佐伯軍と戦うた、とあるそうなので、状況は複雑。
どちらにしても、この深渕城は、南朝北朝双方にとって重要な砦を認識されちょったのでありましょう。
土佐の、東西を結ぶ交通の拠点、深渕。
こないだ、明治25年の物部川大洪水で流された旧深渕神社は、ここかも知れない、という場所をご紹介しました。
今朝、Googleマップを見てみますれば、そこには「三宝神社」とあります。う〜ん。なるほど。
あの写真でもわかるように、あそこからは三宝山を美しく拝むことができます。
三宝山は、金剛山で、てっぺんに金剛道寺の跡があり、竃戸神社が鎮座しちょったと言います。その竃戸神社、三宝社とも呼ばれたそうで、なので三宝山。その三宝社を遥拝する場所であったのか。謎は深まる初夏の朝。