定規で引かれた四角形、対角線、直角二等辺三角形〔4348〕2015/03/12
2015年3月12日(木)晴れ
昨日ご紹介した久枝の北には空港があります。元々優良な農地であったものを、海軍が接収して飛行場として整備したもの。
昭和27年に米軍が撮影した航空写真を、国土地理院の閲覧サービスから見ることができますが、その写真を見ると、海軍省のエリートが、どうやって飛行場の図面を書いたか、手に取るように解ります。物部川を右辺とした四角形。
地形とか、集落の区画の形状とかにまったく関係なく、定規を当てて鉛筆で直線を引いた図面。海軍飛行場の敷地は、そうやって決められたに違いない。海に近い場所に広大な四角い土地。
で、当然、四角形の中に滑走路を作るとなると、対角線を取るのが一番距離が長い。
四角形は、東西南北をコンパスに合わせて真っ直ぐに描かれました。なので対角線は南東から北西。現在の高知空港滑走路の向きは、そうやって決められたのでありましょう。東京の海軍省エリート官僚が、地図にそのまま線引きして、有無を言わせない。そう見て取れる、航空写真。
その四角形の中を流れていた秋田川は、四角形左辺に沿うように流路を付け替えられました。なので現在の秋田川は南北に直線上に流れゆう訳だ。当時は、飛行場の西端は現在の秋田川まで。
戦後、空港拡張に際し、秋田川の上に滑走路が延長されたのはご承知の通り。
さて。
四角形の対角線に滑走路が引かれた、となると、その滑走路を底辺とする直角二等辺三角形ができます。海軍飛行場の図面で、直角二等辺三角形が非常に印象深く印象に残っちょります。それは、昭和27年の航空写真でもはっきりと確認できますし、現在のGoogleマップでもわかります。
その直角二等辺三角形の中は、かつて、海軍飛行場の敷地であった。
現在も、その直角二等辺三角形の中の田んぼの畦の方向と、三角形の外の畦の方向が全然違います。戦後、住民に土地が戻された際、滑走路の方向に沿う形で区画が整理されたのでありましょう。開拓組合をつくって。
写真は、その直角二等辺三角形の底辺の頂点。右側が滑走路、つまり底辺で、左へ行く道が、直角の頂点へ向かう道。その間に挟まれた部分、つまり直角二等辺三角形の中が、海軍によって接収された土地。戦後、組合によって開拓された土地。
ここに「開拓記念碑」があることは知っちょりました。しかし、迂闊にも、ここが、接収された土地の境目である、とまでは認識できちょりませんでした。今日、やっと、ここに碑が立つ意味がわかりました。
この記念碑には、元日章村長さんによって、非常に重く深い文章が刻まれております。全文、転記します。
開拓記念碑
この地は明治22年7月物部、久枝、下島三村が相寄って誕生し、香美郡に属した元の三島の里である。沃土に農を興し、黒潮に恵まれて文化の香り高く、県下屈指の優良村となって栄えた。秋田川の流れは老若に憩を授け、鎮守室岡山は、白鳳から明治にわたる数多い津波洪水に村人避難の神域となり、命山と呼んでその信を集めた。
第二次世界戦争の予兆濃い昭和16年早々、日本海軍はここに航空基地を建設す。総面積2184反を接収、263戸1500余の住民ら急遽退去を命ぜらる。翌17年日章村発足となる。
年を経ずして敗れて戦は終り、接収土地の還元を見る。縁りの者らは組合をつくり、失った古里再興に祈りをこめ、汗にまみれ苦難を越えて只管開拓の鍬をとる。退去を免れ残された寸土を守り続けた者達も、一つの思いに力をあわせた。
しかるに、すでに国県は859反を高知大学、空港用地と決定し、われら農民の全土払下への悲願を断つ。続いて工専が開設され、さらには今次空港の再拡張となり、開拓の面影は潰え去るに至った。思えば半世、時の流れには抗し難し。
古里再び旧に還らぬいまは、ただ、来る世の礎石となり、せめて学究の若者達の開ける道と県土夜明けの空の道とならんことを。
茲に組合を閉ざすに当り、後世のため碑を建て、沿革の大略を誌す。
元日章村長 元県議会議長 西内四郎
いかがでしょうか。深く重い文章。
ここは、命山がることもまったく考慮されず、定規で線引きされた飛行場。