宇佐、真覚寺、日記、安政の大獄の影響〔4343〕2015/03/07
2015年3月7日(土)雨
朝から小雨が降る高知。
今朝は、宇佐へ行っちょりました。土佐市宇佐。古くからの漁港で、ジョン万次郎少年が出港した港でもあります。
その宇佐の東端、橋田という集落の山裾に鎮座ましますのが真覚寺。幕末、その真覚寺でご住職をされておった静照さんが、嘉永7年(安政元年)11月5日に発生した安政南海地震から、15年間ずうっと書き続けた日記があります。このにっこりで何度ご紹介してきたことでしょうか。しかし、その、真覚寺さんをご紹介するのは初めて。
本堂の前に、このような標柱。そう。このお寺さんは、津波が足元まで押し寄せたものの助かったのでありますね。地理院地図で標高を見てみると、6mくらい。そんなに高くはないのですが、宇佐浦の東端で、西向きの山裾にあったことが幸いしたものと思われます。津波は、南東から北西方向に押し寄せましたので。また、宝永南海地震よりも規模が小さかったことも幸いしたでしょう。
さて。
あの、東日本大震災から、間も無く4年を迎えようとしています。そこで、静照さんの日記で、安政南海地震から4年目頃のものを見てみました。
4年経過して、随分と減ってはおりますが、まだ余震が続いている風景が読み取れます。毎日ではないものの、2日か3日に一度は「六ツ半時ゆる 中ノ中」などという記述があります。東北の状況は我々には遠いものですが、今も小さな余震は続いておるのでありましょう。そんなことがわかる、真覚寺日記。
もう、震災の記述はでてきません。その変わり、幕末の世相が感じられる記事が出てくるようになります。盗賊が増えた、とか、江戸で武家の騒動があったらしい、とか。
安政5年10月。
宇佐では、浦人総出で、大狂言大会を催す計画が進行しよったようです。役者は、毎晩稽古に勤しみ、子供も狂言の真似事をして盛り上がる風景が、日記に描写されちょります。そんな折、静照さんは高知の城下へ出掛けます。城下は、これまた神祭の準備で盛り上がっちょりました。メインイベントは花台。地区ごとに見事に飾り付けた花台が練ってくお祭りを、城下の人々は楽しみにしちょりました。しかし。10月19日の日記に、「日暮頃、町方の役人より、上からの命令なので祭礼を差し止める、との通達があった。いかなる理由で、俄かにそんなことになったのか、知る者はいない。」とあり、「今夜、佐川殿急御用にて、早馬にて出府有し由」ともあります。何かが起こっている。
そして。宇佐へ戻って10月21日。
宇佐浦の庄屋が、須崎の役所へ、狂言の舞台を葺く桟敷の詮議に出掛けます。そこで。
「先ヅ、狂言ハ不相成ト須崎より下知有ける由にて、踊も狂言もさっぱりやまり、若者共大ニ力を落し、踊り子ハ海鼠を藁にて括りしごとくニなり、役者は口々に舌打ちし、折角入りた居風呂ノ底のぬけたるごとくなり。今迄稽古中に雑売弐貫目余り益なき事とハなりぬ。」
雰囲気が伝わってきますので、原文のまま転載しました。踊り子が、ナマコを藁で括ったみたいになり、せっかく沸かしたお風呂の底が抜けたようになってしもうた訳だ。突然中止になった理由は、誰もわからない。
これは、この直前の9月5日から、井伊大老による安政の大獄が始まったことに端を発するのではないかと考えられます。
10月29日の日記日記には「この頃、江戸表で、大名衆の騒動有り」と書かれ、安政の大獄の情報が土佐の庶民にも伝わってきたことがわかります。なんせ、藩主、山内容堂が謹慎になるくらいの事件なので、イベント中止は仕方なかったのかも知れません。
真覚寺日記は、実にリアルに、当時の雰囲気を伝えてくれます。このお寺さんで、静照さんが日記を書きながら過ごした日々が想像できます。