国造、カクソ、16度問題〔4315〕2015/02/07
2015年2月7日(土)晴れ
今朝は高知。ここは旭駅の西。向こうに見えゆうのが、JR土讃線の旭駅。高知駅から西へ3つめの駅で、近くに高知学園とかがあるので、学生さんが多く乗り降りする駅、旭駅。
この界隈の小字(ホノギ)名は「カクソ」。変わった名前です。カクソ。
昭和10年発行の「最新大高知市街地圖」には、高知市の小字名が細かく書き入れられちょります。それを見てみますれば、旭駅の北沿いが「カクソ」。つまり、向こうに見える駅の北側が「カクソ」で、駅の南東側が「南カクソ」
この不思議なホノギ名は、ここが太古の土佐の中心であったことを示すものである、という説があります。それも、かなり有力な説。
「国造本紀」では、現在の高知県で、まず「波多国造」が置かれ、次いで「都佐国造」が置かれたとあります。とさのくにのみやつこ。国造。こくぞう。国造が住んだ屋敷はこくぞうやしき。それが、いつしか訛ってカクソになったのではないか、と、昔から考えられちゅうのでありますね。江戸時代の「南路志」にも「皆山集」にも、そう書かれちょります。
で、国造本紀に戻ると、最初に都佐国造に任命されたのが小立足尼。ひじのすくね、と読みます。ひじ。
ここから西北へ、高知商業から北へ行った宗安寺橋の北に「尾立」という地名があります。ひじ、と読みます。小立で「ひじ」。尾立で「ひじ」。
どうやら、間違いなく関係がありそう。カクソから長尾山の下を通って西進すると高知商業の前に出ます。そこから鳥越を越えて下ったら、尾立。
想像できることは、この界隈に、昔ヤマトからやって来たのか元々この界隈の住民なのかは別にして、その当時には在地の豪族となっちょった有力な勢力があった、ということ。で、その在地豪族が中央政権から国造に任命され、住んだのが、まさにここであった、ということ。
さて。
この、小立尼足さん。賀茂氏の系譜とされます。では、土佐国造は賀茂氏系なのか。土佐神社は、賀茂氏系の神様を祀る神社。しかし、元々、土左大神を祀っておった、と、日本書紀にあります。祀っていたのは都佐国造。
つまり。都佐国造が祀っていた土左大神が、土佐神社の原初の姿。そこに、賀茂氏系の神を祀るようになった、という歴史。ややこしいですが、それでは、都佐国造は、最初は在地勢力であったものが、賀茂氏の影響を受けるようになった、とも考えられるのでありましょうか。ああ、ややこしい。
ともあれ、この地に置かれた土佐国造。そんなに遠くない場所に尾立。ひじ。その中間地点の西側には、朝倉古墳のある赤鬼山。その南が鴨部。有力な在地豪族と中央の有力者の力関係が複雑に錯綜する政治情勢が見えてくるような気もします。
いや〜、朝っぱらからややこしい話で申し訳ございません。
ややこしいついでにもう一つ。16度問題。
この旭界隈、そして、鏡川を挟んで南の界隈。その条里の南北が、左回転に16度だけズレちゅう、という話。まっすぐ南北ではなく。Googleマップで見てみると、たしかにそんな感じ。
何故、そうなったのか。地元では、それを、土佐国造時代に、鴻ノ森と烏帽子山を結んだ線を基準にして条里制を布いたから、という説を唱える方がいらっしゃいます。
改めて、鴻ノ森と烏帽子山を結んだ直線上を調べてみました。
改めて見てみると、どうやら、この、旭駅のちょっと西側。ここ。この踏切界隈。カクソのちょっと西。元町と旭天神町の境界辺り。
未だ、土佐国造の屋敷の跡は見つかっちょりません。ひょっとしたら、ここが国造屋敷であったのかも知れません。ここを中心にして計画された都市、やったのであれば。ここを発掘したら国造屋敷遺跡が出てくるかも、などという、これまたヤチもない妄想を暴走させしまいました。ホントにヤチもない。
ここに立って南北を見てみても、現在は建物が邪魔になって何も見えません。ここは、北側に小高い丘。その山裾のような場所で、昔はもっと広かった江ノ口川が流れちょったかも知れません。その河畔。現在の高知の城下は浦戸湾の底であった時代。江ノ口川の舟運が利用できた、肥沃な土地であったのでしょう。そこに屋敷を構えた国造。奈良時代以前の、土佐の原風景。