知寄などいふ底もなき渕なれば、たやすく埋草も及ぶ所にあらず・・〔4312〕2015/02/04
2015年2月4日(水)良いお天気
冬らしい、良いお天気が続きます。
ここは今朝、夜明け前の宝永町。昨日の夜、久々に会社から走って帰ったのでありますが(久々に夜の宴会が無かったのであります)、自転車を家に下ろしちょくがを忘れちょったので、今朝はバス通勤になりました。普通の路線バスではなくて、空港連絡バス。高知大学農学部前で下車できるので、そこから歩いての出勤になります。
空港バスに乗ったのは宝永町バス停。その東にある大きな交差点が宝永町の交差点。今、高知でも有数の渋滞交差点で、特に南行きと西行きが混みます。ここから南へ、鏡川大橋を渡ろうとする車が多いきでしょうね〜。
しかし、朝6時前。まだ、通勤の車も少なく、静かな静かな交差点。ここには昔から歩道橋が架かっちょります。その上から、東の方向を撮影してみました。真正面にまん丸お月様。何という美しさ。
そのお月様の真上に輝く星は、木星。
宝永町。
元々、山内氏が高知の城下町を建設した際、ここに、南北の堤を構築して、浦戸湾の水が城下へ流入して来んようにしました。その堤は、改修、補修はされておったでしょうが、宝永四年(1707年)の宝永南海地震で破損、地場沈下もあって、海水がこの西の方面広く流入して長期浸水になったと言います。
今でもこの界隈は、海抜0m地帯。
で、これではいかん、ということで、それまでよりも頑丈な堤が南北に構築され、宝永の時代に構築された堤ということで宝永堤と呼ばれるようになり、そんなこんなでここは宝永町という町名になった訳だ。て、この話、何度書いてきたかわかりません。使い回しネタで申し訳ない・・
しかし、今は堤の痕跡も何もありません。跡形もなし。
こないだも書きましたが、この南が常盤町。その西が農人町。
この写真右手界隈から菜園場の手前にかけて。城下町建設の頃は、「御小人潮田」と称された潮田。ここに堤ができ、この左側に農地が開発された頃。寛永八年(1631年)、芳原村(春野の芳原)の島崎藤右衛門さんという人物がやってきて、開発を始めたと言います。で、寛永十三年(1636年)に「新町」として成立。
こないだの常盤町や農人町、昨日の新市町もそうでしたが、町が成立した年号が全部特定できる、というのはすごいですね。これは、藩の都市計画が、行き当たりばったりではなくてかなり計画的でキチンとしたものであったことの証左。
ちなみに新町には、南から、田淵、南新町、中新町、北新町、鉄砲町の5つの町がありました。この写真のしゅっと右手界隈が田淵。
田淵と、南の農人町の間には、山内入国以前、浦戸湾の水が深く入り込んで渕になっちょったそうです。宝永地震の翌年に書かれた軍記物「土佐物語」には、「知寄などいふ底もなき渕なれば、たやすく埋草も及ぶ所にあらず・・」と書かれちょります。
この左手の界隈が、底もなき渕であった時代。想像するのも難しい。
しかし、この交差点の海抜は、現在でも海抜マイナス0.2m。そんな歴史は、知っちょって損はないですね。