米子城址の12年〔4299〕2015/01/22
2015年1月22日(木)小雨
今朝は米子。鳥取県の米子市。昨夜は、朝日町でグッスリ飲りよりました。もちろんお仕事ですきんね。で、またまた日付が変わるまでやってしまいました。いや、もちろんお仕事。
日付が変わってお店を出ると、なんと、雨。この季節の米子やのに、雪ではなくて雨。気温が高い訳です。
今朝は、5時半に起き出して、まだ生酔いの身体を引き摺りながら走りに出ました。せっかくの米子ですき。今朝も、まだ、小雨は降り続いておりました。
ま ずは市内の中心部。加茂川という、高知でいうと堀川のような川が流れ、街並は古く、趣深い。戦争で焼けてないがでしょうね、狭い路地が縦横に走る、素敵な 街並。商都米子の雰囲気を今に残す、良い街です。変に再開発せず、古いものと新しいものをうまく混在させちゅう感じがエイですね。
その加茂川には小さな遊覧船。ほら。こういった取り組みが実に羨ましゅうございます。
そんな商都米子の歴史を体感しながら中海へ。そして、中海沿いをたつくっちょいて、米子城址。標高90mという山に築城された米子城。建物はもうありませんが、石垣、天守台などは往時の壮麗さをしのばせてくれます。
ここは、尼子と毛利の勢力に挟まれた戦略拠点。で、戦国末期、毛利方の吉川広家がここに築城を開始。この山、中海に面し、四方に眺望がきく、築城にはもってこいの山ですね。
関ヶ原の後、中村一忠という武将が17万5000石で入国して米子藩を立てました。まだ、11歳という若さなので、徳川家康は、後見役として横田村詮を派遣。で、この村詮さんがこの米子城を完成させ、城下町を整備する功を担うたそうです。
しかし、中村の家臣と対立、讒言を受けて、中村一忠は村詮を殺害。
これに家康が激怒し、首謀者を切腹させ、一忠も謹慎となりました。米子騒動。
で、一忠が20歳の若さで亡くなると改易。その後、加藤氏、池田氏、と城主が変わり、池田氏筆頭家老の荒尾氏が幕末まで城主となりました。
米子城。
このにこりひまわりでは、過去、3度ほど、この詰の段、天守台からの風景をご紹介しちょります。
1度目は2003年5月24日。このにっこりひまわりを始めて一ヶ月ちょっと。大山乳業様でひまわり「菜食健美」の販売が始まったばっかし。
2度目は2007年11月10日。もう、白バラ「菜食健美」の中国、近畿地方での宅配が軌道に乗り始めた時期。そして、3度目。2011年8月9日。もう、完全に軌道に乗り、次なる展開をどうしようか、と考え始めた時期。
今回は、初めての、冬の米子城址。もう少し気温が低ければ、雪の降る米子城址になっちょったがですけんどね。まだ夜明け前。まっ暗い城山を登るのは、足元も見えんのでなかなか危険。そろそろと、目を凝らしながら登ってきました。
美しい米子の街灯り。早朝の米子城址。