10年後の船上山〔4298〕2015/01/21
2015年1月21日(水)曇っちょります
今日は鳥取県に来ちょります。琴浦町。琴浦町に、弊社が大変お世話になっております大山乳業農業協同組合様がございます。今日は、そちらにお伺いしちょりました。
今朝7時に南国市の本社を車で出発、岡山市内で別の社員さんと合流して、お昼前に到着しました。昨夜は、お客様の商社会総会などがございまして、飲んだ飲んだ。家に帰ったら日付はとっくに変わっちょりました。なので眠いのであります。が、今夜も米子で飲む予定なので、体調を整えるべく、車の中では寝んといけません。
お昼過ぎ、大山乳業様でのお仕事を済ませて、少し時間があったので、同じ琴浦町にある船上山に寄ってきました。大山隠岐国立公園に属する、聖なる山、船上山。
以前、ご紹介したことがあるねや、と思うて調べてみたら、もう、10年以上も前、2004年11月5日のことでした。いや〜。もう、そんなに前になるのか。小生はまだ40歳代前半。後姿もスッキリと若く見える、10年ちょっと前の興味深い写真を、ご紹介しちょります。
船上山。
標高615m。約100万年前の古期大山の外輪山とも言われる、聖なる山。大山、三徳山と合わせ、伯耆三嶺と呼ばれたそうです。平安時代初期から山岳仏教、信仰の山の聖地として尊崇されてきました。
この、頂上直下の断崖を見ると、何故、信仰の山となってきたのかは、よく理解できます。標高はそんなに高くないのに、古くから重要な信仰の山となったのは、この独特の崖に囲まれた山容によるものでしょう。
後醍醐天皇が元弘の乱に敗れ、失意の内に隠岐へ流されたのが元弘2年(1332年)。そして翌年閏2月24日、風雨の中、船で隠岐を脱出。名和の湊にやっとのことで辿り着きました。名和長年が支配していた山陰の名和。
後醍醐天皇を守り、盛り立てることを決意した名和長年は、ここ、船上山に後醍醐天皇をお連れして行在所とし、籠城したのでありますね。
ここは、日本海、赤ざきから十数キロだけ内陸に入った場所。そして、要害。
隠岐からの脱出を許す、という大失態をしでかしてしもうた隠岐守護の佐々木清高らは、軍勢を繰り出して船上山を攻めます。
しかし。この地形を巧く利用し、また、自軍の勢力を実際よりはかなり多く見せかけることに成功した名和軍は、佐々木軍を撃退。
これが、大きな契機となり、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して復権、建武の新政へと突き進む訳なので、この山は、この山の形状は、歴史に実に大切な役割を果たしたと言えましょう。
そんな歴史をもつ山、船上山。
前回ご紹介したときは、弊社の青汁「菜食健美」の販売を、大山乳業様に始めて頂いた翌年のこと。まだ、ひまわり「菜食健美」であった時代。その翌年、大山乳業様のブランド、白バラ「菜食健美」になり、販売数量も飛躍的に伸びたのでありました。
あの時、ここへやって来たのは、「白バラ」ブランドにする話をしに来たがやと思います。
あれから10年ちょっと。
時の流れに身を任せ・・