中の島、九反田、鬼龍院政五郎〔4286〕2015/01/09
2015年1月9日(金)晴れ!
冬らしい、冷え込んだ朝になりました。やっぱし冬はこれっぱあの方が冬らしいですな。空気が澄み切っております。
ここは中の島と常葉町の間に架かる橋の上。西の方角を撮影しました。堀川。正面に見えるのが、ホテル日航高知旭ロイヤルさん。
堀川。嘗て、堀詰までつながり、高知の城下の物流大動脈であった堀川。あの、ホテルの向こう側で南北に掘られた横堀と交差しちょりました。
この堀川界隈の成り立ちについて、ちくと考えてみましょう。
正保元年(1644年)に、幕府の命によって作成された絵図を見てみますと、既に、横堀も掘られ、この堀川は縦堀として堀詰までつながっちょります。堀詰からも南北に堀が掘られちょりますね。その西側には、嘗ての鏡川の蛇行の痕跡とされる逆馬蹄形の池もあり、その池からは西へ水路が見えます。そう。水の都、高知の城下。
元々、高知の城下は湿地帯。古代には浦戸湾の底だったものが、徐々に土砂が堆積し、沖積平野が形成されていったもの。なので、ベネチアではありませんが、湿地帯の上に街を形成していった、という歴史があります。
正保絵図をよく見てみますれば、興味深いことがわかります。
あの、ホテルの界隈が九反田。九反田は、九反ほどの広さの三角形の中洲。島。で、現在はこの左手に伸びてきておる中の島、当時の棒堤とは離れちょって、棒堤と九反田の間は水路になっちょります。
現在のかるぽーとの西側、四ツ橋のところから横堀を南へ下ると、鏡川の土手に突き当たる。で、その突き当たった横堀は、東に折れて九反田の南側を流れ、浦戸湾へ。その南側が棒堤。わかりますでしょうか。ああ。表現が難しい。
その状態は、17世紀の間続き、元禄の頃になって、やっと、九反田と南側の棒堤が陸で繋がっちょります。間の水路が、埋め立てられてきた訳です。
それで、九反田と中の島は一体となりますが、陸でつながっちょったのは鏡川沿いの土手部分だけ。なので、九反田へは橋で渡ってくるようになっちょりました。
時代が下ると、くっついた九反田と中の島は徐々に大きくなります。建物もでき始めました。鏡川と堀川に挟まれちゅう訳で、なかなか便利な場所ですきんね。高知の城下の玄関口。
完全に独立した島であった頃、つまり17世紀の九反田には、称名寺さんという大きなお寺がありました。万治三年(1660年)に火事で焼けてしまうまで。称名寺さんは、その後、筆山の麓に移り、そして現在は升形。
九反田の称名寺さんの跡地には米倉。もう、その頃には堀川を使用した水運が活発になり、高知の城下の物流センターになっちょった訳で、お寺よりは蔵であったのかも知れません。
その米蔵が、文政期、つまり19世紀になってから、突然鳴動しました。そこで掘り返してみると、首のない地蔵尊と石碑が出土。これは、石田三成の幼い娘が、関ヶ原の後、乳母に連れられて逃げてきて、称名寺さんにやって来た、という伝説と合致。で、懇ろに弔い、九反田地蔵尊として祀るようになった、とされます。
その九反田地蔵には、「鬼頭良之助」と刻まれた巨大な百度石。そして、脇の石版には
記念
于時大正四年十一月廿八日 旧米庫火災之際類焼ニ罹リ 鬼頭良之助氏外数名斡旋ニヨリ 其年茲ニ再築ス
大正八年二月 田中治助
そう。火事で焼けた地蔵尊を、地元の親分、大侠客の鬼頭良之助さんが中心になって再興した、という訳だ。九反田ゆかりの鬼頭良之助。もちろん、ご承知の通り、逝去された宮尾登美子さんの「鬼龍院花子の生涯」に出てくる親分、鬼政こと鬼龍院政五郎のモデル。鬼龍院政五郎は、映画では、仲代達矢さんが演じて、強烈な印象を残しちょりますね。
そんな訳で、九反田地蔵尊には、仲代達矢さんご寄進の、仲代達矢と刻まれた石灯籠が立つのであります。