堂の前の盤持石〔4233〕2014/11/17
2014年11月17日(月)薄曇り
こないだうち、介良のえらいての話題の中で、バンモチの事を書きました。かつて、それぞれの地域で盛んに行われた相撲とバンモチの話。巨岩を、どれっぱあ持ち上げれるか、持って歩けるか、などなどを競うたバンモチ。漢字で書けば盤持ち。それに使われる石が盤持石。それぞれの地域のお宮さんには、土俵と盤持石が必ずあったにかありません。
今は、盤持石、どっかに行ってしもうて無いなっちゅうケースが多いようです。もう、やらんなったですきんね、バンモチ。
その盤持石のことが、小生が所属する秦史談会の機関紙、秦史談の最新号に書かれちょりました。昔は、農作業も機械化されちゃあせんので、人力がかなり重要になってきます。で、力持ちは、農作業にとって有利で重宝される。そんな訳で、相撲やらバンモチやらで力を競うようになったのでしょうか。
バンモチに強いと、嫁取りも早かった、などとも言われますね。とにかく何かと有利。
そんな盤持石が、ここに残っちゅうと、その秦史談に書かれちょったので、今朝はそれを撮影に来てみました。東秦泉寺。
イオンができ、北環状線ができて、風景が劇的に変わってしもうた東秦泉寺。ほんのこないだまで、山沿いの道がメインストリートで、その南は田んぼが広がっちょった東秦泉寺。
その旧道に農協があります。その西側に交差点。堂の前(どのまえ)の四つ辻。南へ行くと、シキボウの東の道。北へ行けば泉野小学校へも行けますし、秦泉寺城址へも。
その堂の前の四つ辻に、今も残る燈明台。東谷不動尊への入り口であることを教えてくれる燈明台。ここに燈明台が置かれたのは、ここが寂しい場所で、夜になると血まみれの鎧武者が出没する、などといった噂があったきにかありません。秦泉寺の合戦では、長宗我部軍とのかなり激しい戦闘が繰り広げられた場所ですき、血まみれの鎧武者が出てもおかしゅうありません。
で、近在の人々が話し合い、燈明台を立てて照らしたところ、こわいもんは出んようになった、と、秦史談に書いちゃあります。
燈明台の脇には土俵もしつらえられ、相撲が行われるようになったとか。そしてバンモチも。
この写真。燈明台の右手の石。真ん中の石ですね。これが盤持石。27貫(101kg)あるそうで、こちら側が欠けちゅう盤持石。これを、持ち上げたり持って歩いたりしよった昔の人たち。
体格は今の若者の方がエイろうけんど、実用的な体力という面では、昔の人々の方が圧倒的に優れちょったと思われます。労働の筋肉。米俵を何俵も担いで平気やった昔の人々。
そんな風景を思い起こさせてくれる盤持石。これが盤持石であったことを知る人も、もう、かなり少のうなっちゅうでしょう。今となっては貴重な民俗遺産、盤持石。