中の島、棒堤、石組み堤の風景〔4220〕2014/11/04
2014年11月4日(火)快晴!
良いお天気。寒いくらいの朝。もう11月ですきんね〜。四国山地の高いところでは、もう、紅葉。昨日の五台山、竹林寺さんでは、まだ全然でしたが、これからどんどんと紅葉していきます。文殊菩薩像の50年に一度のご開帳は今月25日まで。その頃には紅葉も進んじゅうと思われます。その頃、ぜひ、行ってみるとこをお勧めします。
さて。
ここは今朝の中の島。高知市中の島。鏡川大橋北詰の橋の下。堤防の補強改修工事が行われゆう風景を、午前4時に撮影してみました。誰も居ない、静かな鏡川の堤防。
こないだうちからここを工事しゆうがは知っちょりました。で、堤防部分を掘り返しゆうので、今の堤防ができる以前の、何かの痕跡があるがやないろうか、と思い、工事現場の作業員さんに不審な目で見られながらも、工事現場を覗き込んだりしておりました。
昨日も日曜日というのに、やりよりました。ユンボで、この道路よりもかなり深い場所まで掘り返しております。当然、水が出ておりました。そこから大きな石を掘り出し、後方へと置く作業。
なるほど。
想像ですが、この石の群れ、かつての護岸の痕跡なのではないでしょうか。
現在の、道路からは何も見えないくらい高い堤防が築かれたのは、たぶん昭和45年の台風10号の時。高潮で高知市内が水没し、高潮対策の高い高い防潮堤が、浦戸湾とそれに流れ込む川沿いに構築されました。あれから、高知の水辺の風景が、一気に味気ないものになってしもうたと言います。
で、3.11。今度は地震対策、津波対策ということで、補強工事が為されゆうがでしょう。
さてこの石。いつ頃のものでしょうかね。この場所は、戦後の地図を見ても中の島で、石油会社などの表示があります。戦前の地図を見てみましょう。
昭和10年発行の市街地図。それで見ると、この、鏡川大橋の界隈は「西棒堤」。少し東が「中棒堤」で、その東が「東棒堤」。今の中の島の長さとそんなに変わりません。中棒堤や東棒堤には、スタンダード石油会社、ライジングサン石油会社、日本石油会社、溝渕石油倉庫、などが見えます。やはり石油の基地。そこへ道路もつながっちゅうので、ここには護岸が施されちょったでしょう。この石は、その頃の護岸の痕跡でしょうか。
大正14年発行の高知市街図。それには、「棒堤」とだけあり、丁度このあたりに「製材会社」があって、建物も数軒ある表示。東九反田公園のところが海南中学校。そこから棒堤まで護岸があったのかどうなのかは、地図ではわかりません。
しかし。
明治30年発行の土佐国高知市街図。この市街図には、市内にあった堤が全部書き込まれちょります。当時は、まだ、宝永町の南北に宝永堤が残っちょります。そして、ここ、棒堤にも堤の記号。石組みの護岸堤防が築かれちょったことは間違いございません。ひょっと、その頃の石組み堤の痕跡がこの石でしょうか。
それ以前では、明治11年刊行の河田小龍さんの市街図。
これには「ボウヅツミ」と書かれ、鏡川の河口にできた洲のような感じ。今より狭く、心もとない感じの堤。
それ以前。藩政期後期に描かれた浦戸湾風景の絵図を見てみます。後に開成館ができる、東九反田公園の界隈に少しだけ建物と柵が見えます。そこから東、つまり棒堤は茅の原っぱみたいに描かれ、構築物は見えません。
さて。この、工事現場から出てきた石は、一体いつ頃のものでしょう。戦後のものでしょうか。昭和初期のものでしょうか。それとも明治期のものかも知れません。
藩政期の絵図では、堀川沿いに松並木、そして護岸の石組み。稲荷町、若松町の南にも低い石組み護岸。その護岸の上を、たくさんの人が歩く風景。青柳橋はありませんが、渡し船の乗り場が見えます。
その石組み護岸の上の道からの風景は、どんなに美しかったことでしょうか。絵図を眺めるだけで、往時の、贅沢極まりない美しい風景が浮かんできます。