三宝山から縄文海進の風景を観る〔4199〕2014/10/14
2014年10月14日(火)まだ雲が
昨日の夕刻、台風の目が通り過ぎた後、高知は青空になって見事な虹が東の空に。雨雲レーダーを見ても、その西側には雨雲がなかったので、これでもう、台風も終わったかな、という感じでした。
で、夜、家に帰って、いつものように寝室の北側の窓をすかして寝よったら。夜中、なかなか吹きましたね〜、風が。いわゆる吹き返し、というやつでしょうか。部屋にビュンビュン風が吹き込んできてビビリました。農作物等に被害がなければ良いのですが。朝になってもまだ吹きよりました。
3時半過ぎに起きてみると、空には厚い雲。台風一過の星空を期待しちょりましたのに。
で、会社へやって来て、いつもの野市、上岡八幡宮さんへ。南の方角を見ると、カノープスが見えます。雲がこんなに厚いのに、何故?
どうやら、今朝の雲があちらこちらがチギれて空が見え、地平線、水平線界隈には雲がない、ということにかありません。なので、低い低い位置のカノープスが見えた訳だ。
で、ここは野市の三宝山。まだ、実際の風景としてはかなり暗いのですが、感度を上げて撮影してみました。すると、風景も、街灯りも、両方写って美しい写真になりました。夜明け前の香長平野。向こうの一番明るい部分が高知の市街地、お城下。
左端に太平洋が見え、その右手に南嶺。
介良三山は、光の海に浮かんで見えます。
ここで、縄文海進を考えてみましょう。
ご承知の通り、縄文前期から中期にかけて、地球上の気温が1℃〜2℃上昇したことによって、極地域などの氷が融け、海水面が上昇した現象。今から6000年ほど前がピークで、海水面は、今よりも3m〜5m高かったとも言われます。ここ、高知でも、その当時にはヒトが居住しておりました。どんな風景の中で暮らしておったのか。
この写真の右端辺り、高知大学医学部の北西に、奥谷南遺跡という遺跡があります。以前にもご紹介しました。今は高速道路の法面になっちゅう、岩陰遺跡。そこからは、高知でも一番古いクラスの旧石器時代の石器が発見されちょります。また、縄文中期の貯蔵穴、弥生期の高地性集落などが発見され、2万年間、人類がなんらかの形で暮らしてきたと思われる、奥谷南。
高知大学医学部の南の、国分川南側の、現在の海抜は、約5m。国分川による土砂の堆積を考えれば、数千年前は、もっと低い海抜であったでしょう。で、海面が今より3〜5m高かったとすれば、そこまでは海。広大な浅海が広がっちょったと思われます。と、考えると、あの向こうの、街灯りが明るい部分が、概ね海でしょうか。
この眼下は、海抜10mを超える洪積台地なので、海ではなかったでしょう。海岸は、やはり、あの、明るい部分と田んぼとの境目くらいかも知れません。
そんなことを妄想できる、台風明けの朝の風景。
6000年前。あの、街灯りの部分までが全部海であった風景。その海近くの山裾に、まだまだ少なかった縄文人が暮らしていた風景。
稲作文化が入ってきたとき、それが一番早く、一番盛んに行われるようになったのは、この写真左端、物部河口部の自然堤防上、田村。そこから、人々が暮らすエリアが広がり、写真右端の国分が中心となりました。政治の中心は、また、田村に戻った後、戦国時代。
そして江戸時代になり、あの、お城下の賑わいが形成され、今に至る。
悠久の時の流れを、この風景の中で感じることができます。