九反田公園、なくなった樹木〔4175〕2014/09/20
2014年9月20日(土)小雨
まだお彼岸前というのにこの寒さ。どうなっちょら〜!てな感じの9月中旬。残暑全然厳しゅない折、皆様、益々ご清祥にお過ごしのこととお慶び申し上げます。まっこと。
ここは今朝の九反田公園。幕末から明治にかけて、開成館や立志社ができるなど、重要な場所であり続けた東九反田公園に比べますと、ちくと印象の薄い九反田公園。しかしここは、高知のナンバースクール第一号、第一尋常小学校ができた場所なのでありますね。明治6年に盈進学舎、翌年に南街小学校となり、明治24年に第一尋常小学校。で、第二尋常小学校と合併して、昭和22年に新堀小学校となり、昨年、追手前小学校と合併してはりまや橋小学校になってしもうたのは、皆様ご承知の通り。
さて。では、この場所、明治維新以前は何があったのか。藩政期の絵図を見てみますれば、米蔵。土佐郡、長岡郡から集められた年貢米が、ここの蔵に収蔵されちょったそうです。北側を堀川、西側を横堀が流れるので、物資の運搬にはこじゃんと便利な場所でありました。
文政期、その米蔵の床下からお地蔵さんが出てきました。「天周妙終尼慶長十八年六月二十二日」と刻まれた石とともに。
さて。では、米蔵になる以前は、何があったのか。それはお寺さん。万治三年(1660年)に火災で焼けてしまうまで、ここには称名寺さんがございました。そう。今、升形にございます称名寺さん。絵図で見てみても、かなり大きなお寺さんであったことがわかります。
関ヶ原で敗死した石田三成の幼女が、乳母に連れられてここへやって来ました。ここにあった称名寺の住職さんを頼ってきたものとされます。しかし、その幼女は七才で腫物を病んで亡くなってしまいました。その供養のためのお地蔵さんであろう、ということで信仰を集め、現在の九反田地蔵尊になっちゅう、という話は何度も書きましたね〜。
しかし。称名寺さん、実は、この場所にやって来たのは寛永九年(1632年)とされます。それまでは、浦戸にあったそうで、それをここに移して、二代藩主山内忠義公の奥さんの菩提寺とした、と文献にあります。それが本当であるとするならば、石田三成の幼女が土佐へやって来た時は、まだ、称名寺さんは浦戸にあったことになりますな。なるほど。
そこから、文政期にここで発掘されたお地蔵さんにどうつながるのか、謎を解いていかんといけません。ちなみに、文政期に発掘されたのは、米蔵が鳴動し、これはおかしいと言うことで床下を掘ってみたら出て来た、という伝承があります。
そんな歴史の九反田。
で、なんでこの写真を撮影したのかと申しますれば、ここにあったものが無くなったからです。この目の前。ジャングルジムの手前。ここに、何の樹であったのか、大きな大きな樹が屹立しちょったがです。こないだまで。
ジャングルジム手前の地面をよくご覧下さい。丸く、土の色が変わっちゅう部分が見えますでしょうか。ここに、ありましたよね、確か。
先月の、2回目の大雨、台風11号の襲来の際、ここにあった巨木が、根こそぎ倒れてしもうたのであります。かなり大きい樹木やったので、地中から現れた根っこも巨大で、ビックリしました。あの巨木は、この場所の、どんな歴史を見てきたでしょうか。よく見ないと、ここに樹木があったことさえ、もう、わからんなっちょります。歴史は、どんどんと過ぎ去ってゆきます。