みかん畑の中の明石掃部守〔4168〕2014/09/13
2014年9月13日(土)薄曇り
ここは五台山。走りやすうなった、心地良い気候の中、駆け上がってきました。牧野植物園はそろそろ秋の装い。どの季節に来ても心休まる牧野ですね〜。
その牧野の南園を抜け、やって来ました。お馬岩。
もう、このにっこりでは何度も何度もご紹介して来たお馬岩。幕末、ペリーが浦賀にやってきたり安政南海地震で大きな被害がでたりしよった時期、五台山のエリート僧、純信と、五台山麓の鋳掛屋の娘、お馬さんがデキてしまい、頻繁に逢い引きしよった、という伝説のお馬岩。
遍路道や生活道からは少しはずれた、人通りのない静かな、そして景観抜群のお馬岩は、二人にとって最高のデートスポットやったでしょうか。
で、そのお馬岩の近くに「明石掃部の墓」がある、と、牧野植物園内に展示されちゅう五台山のジオラマに表示されちょります。こないだ、7月20日に、そのジオラマを撮影して、明石掃部さんの事蹟や伝説をご紹介しました。戦国大名、宇喜多秀家の客将で、軍師。関ヶ原敗北後、黒田官兵衛に拾われるも、息子の黒田長政時代に出奔。キリシタンやったきですな。長政は、キリシタンを厳しく禁止しました。
で、大坂の陣で活躍するも、最後は松平忠直軍に突撃し、その後は行方不明。なにより、熱心なキリシタンで有名。宣教師を匿うたりしちょります。その数奇な人生は、色んな小説にも取り上げられ、謎の戦国キリシタン武将、という位置づけの明石掃部さん。
で、大坂の陣で行方不明になった後は、南蛮へ行った、てな伝説も。そんな伝説の一つに、土佐へ落ち延びた、というのがある訳です。山内家重臣との関係で。
で、五台山のこの地にお墓。兄夫婦のお墓、という説も。
こないだ来たときは、よう探しませんでした。ところがこないだ、高知街ラ・ラ・ラ音楽祭に出演する皆さんを集めたバンドミーティングの際、このお馬岩一帯の畑を所有するTさんにバッタリ。そう。お馬岩界隈の土地の所有者、Tさんは、社労士、行政書士の傍ら、音楽活動にいそしんでらっしゃるのであります。
そこで尋ねてみましたら、明石掃部さんの墓所、お馬岩のしゅっとネキにある、ということを教えてくれました。こんなに近かったのか。
そんな訳で、今朝の写真となった訳です。ああ、スッキリした。
教えてもろうちょかんかったら、たどりつけちょりませんね。これは。鬱蒼としたみかん畑の中にございます。
表面には「明石掃部守全登公 夫妻墓所之碑」
裏面には、明石掃部守が、大阪の陣の後、土佐、香北に落ち延び、家族は香北に残して自分は山内藩匿われた、というようなことが刻まれちょります。この墓所の近くに、山内家に仕えて土佐藩初期に土佐南学を栄えさせた学者、小倉少助、三省さん一族の墓所があります。明石掃部さん、小倉家との関係で土佐にやって来たのでしょうか。で、小倉家の墓所の近くにお墓がつくられたのでしょうか。そもそも、このみかん畑の墓石は、昭和47年に子孫の方がたてたもの。今でも、時折、明石掃部の子孫の方が、お参りに来られると、Tさんがおっしゃっておりました。
そんな訳で、明日、9月14日は、そのTさんも出演する高知街ラ・ラ・ラ音楽祭。小生も、今から設営に出かけます。毎年、大雨や暴風雨にたたられる高知街ラ・ラ・ラ音楽祭ですが、今年はなんとか良い気候の中でできそう。皆さん、のったりまったり楽しみに行きましょうね〜