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古い地図と温故知新〔4142〕2014/08/18

古い地図と温故知新

2014年8月18日(月)晴れたり曇ったり降ったり

今朝の高知市内も、濡れております。昨夜も雨が降りました。今朝も降りました。ホントによく降る今年の夏。
ここは、今朝、4時半前の南はりまや町。はりまや橋交差点の南から、交差点方向を撮影しました。その向こうの青信号のところがはりまや橋交差点。

戦前の市街図を見てみますと、この通りが南播磨屋町で、もうひとつ西、つまり左側の通りが八百屋町。丁度、この写真を撮影した交差点にも電停がありました。朝倉町という電停。こっから南東に広がる町が朝倉町やったので、電停もあった訳です。ちなみに、その向こうに播磨屋町電停。そこから北へ行くと紺屋町電停。播磨屋町から東へ行けば土佐橋電停、木屋橋電停、と続き、西へ行けば使者屋橋電停、堀詰電停、と続きます。今とは電停の名称が全然違うがが面白いですね。
で、電停と電停の間が短い。その向こうの播磨屋町と、ここにあった朝倉町の間は近い近い。播磨屋町と紺屋町も、実に近い。自動車が少なかった時代。電車は、重要な交通機関であった時代、電停の間隔も狭く、利用しやすいようになっちょったがでしょうか。
これ、これからの街中公共交通と、街中再活性化を考えていく際、重要なことかも知れません。高齢化社会を迎え、公共交通を駆使して街中を再活性化していく動きは、こじゃんと重要。電停と電停の間が短いのは、歩いて街中を利用するのに、実は重要なことなのかも知れませんね〜。自家用車が無かった時代の市街図は、これからのまちづくりに大切なことを教えてくれます。

藩政期後期の城下町絵図を見てみると、この通り(もちろん狭い狭い路)はハリマヤ丁通。ひとつ西が八百屋丁通で、ひとつ東には「石切丁ヘ出ル」と書かれちょります。
この東の北側が浦戸町。藩政期初期、山内の殿様が土佐へ入国し、ここに城下町を建設する際に、浦戸から住民を移住させてつくった町。藩政期初期にはかなり重要な街でした。浦戸は長宗我部元親さんが城下町をつくりましたし、山内一豊さんが最初に入ったのも浦戸城。そこから移住させられて来た住民には、水主が多かったと言います。船で参勤交代をしておった時代、浦戸町に水主役が課せられちょったと言います。

この左手にあった八百屋町は、浦戸町の枝町。藩政期初期には、浦戸町支配の魚棚があったにかありませんが、魚棚が弘岡町に移設されたので、その跡地に野菜や乾物を売る店が並び、八百屋町と呼ばれるようになりました。万治元年(1659年)のこと。
天保期の絵図を見ると、その八百屋町、この写真では左端のコンビニのところに「川崎源右門」と書かれちょります。そう。田村屋という屋号で、砂糖や製紙業で豪商になった川崎源右衛門家は、享保十七年(1732年)に、ここに引っ越して来たそうです。川崎源右衛門というお名前は代々引き継がれ、現在もいらっしゃいます。このコンビニ界隈の土地は、280年以上経過した今も、川崎さんの土地であったと思います。明治維新も太平洋戦争もくぐり抜け、ずうっと商人の個人所有であり続けてきた土地、というのは、街中では珍しいのではないでしょうか。
こうやって眺めると、280年前の風景が見えてくるような気がします。すごい。

古い地図を見ると、いろんなことが見えてきて、実に楽しゅうございます。未来のまちづくりのヒントも見えてきたりもします。う〜ん、温故知新ぜよ。


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