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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

西洋町のヤギリ〔4122〕2014/07/29

西洋町のヤギリ

2014年7月29日(火)晴れ

快適な夜でした。涼しい風が心地良い、快適な夜。今朝も、空気が乾いた爽やかな朝となっちょります。クマゼミの大合唱は凄まじいですが。
昨日の午後、坂出市にある香川の支店に行っちょったがですが、近くの神谷神社さんの森ではツクツクボウシ。今年初めてのツクツクボウシの声を聞きました。もうまあ、8月です。

ここは知寄町。高知市の市街地の東部、知寄町。ここに、割合近代的な、しかしまぎれもない「ヤギリ」があったので撮影してきました。木造ではないですが、この、屋根の上の独立して置かれた物干し台は、我々がヤギリと呼んだもの。土佐では、この構造のものは本来「ヤグラ」と呼んだ、という論争もありましたが、大部分の高知県人にとって「ヤギリ」とはこの構造物のことを意味します。よね?

で、昔の市街地図を見よって、初めて気付いたのですが、この場所の南側、「西洋町」という町名やったにかありません。西洋町。
昭和10年の市街図にも、そして昭和39年の市街図にも、「西洋町」と、キチンと記載されちょります。これはなかなか興味深い。何故、ここが西洋町なのか。

かつて下知村と呼ばれたこの界隈は、近世になって開発された広大な潮田地帯でした。藩政期以前は浦戸湾の湿地帯。ラグーンのような場所やったがでしょうか。この南西、農人町の北側には浦戸湾が入り込んだ「知寄ケ渕」という深渕もあったと言います。

昨日のにっこりで、藩政期のインフラ整備に民間の力を巧く活用した行政手法のことを書きましたが、城下東部の広大な潮田開発にも、民間の力が活用されたのはご承知の通り。
土佐州郡志には「潮田村」と記載され「在府城東、此地旧海水取通、近世為田園」とあります。元和2年(1616年)と言いますき、藩政期初期も初期、まだ、大阪の陣が終わったばかりで家康が亡くなった年に、土佐藩二代藩主山内忠義公は、潮江村の庄屋、山崎弥右衛門に命じて、三ツ頭から東の新田を開発させたと言います。新たに開発された農地は770石余り。
弥右衛門さんには、新たな土地からの収益を保証したでしょうか。税金の免除もやったかも知れません。それが当時の民間活用行政手法ですき。藩の財政に負担をかけずインフラ整備を行う手法。

その折に開発された農地は「弥右衛門の丸」と呼ばれ、400年経過した現在でもその地名が残っちょります。それほどインパクトのある開発事業であったのでありましょうか。400年残った地名。
しかし、ここの西洋町という地名は、今はもう聞きません。明治になるまでは田んぼか湿地帯やったでしょうき、そんな地名が付くはずもないので、明治か大正の頃にそんな地名が付いたのでしょうか。ここから南へ行くと稲荷新地。明治期に創設され、高知一の歓楽街となった稲荷新地は、この南の堀川沿いに発展しちょります。
西洋町。その名称は、なんとなく、そんな歓楽街との関連を妄想させます。ひょっとしたら、外国人が居住したのかも知れません。西洋風の料理かなにかを食べさせる店でもあったのでしょうか。

昭和39年の市街図に「西洋町」とありますので、割合最近まで、その地名が使われたようです。いや、今でも地元では西洋町という地名が使われゆうのかも知れませんね。これは、この界隈に住む方に確認してみたい重要事項。できるならば由来も知りたい。

そんな西洋町で見つけた「ヤギリ」。こないだも論争になりましたが、これ、県外では何と呼ぶのでしょうか。もう、すっかり姿を見ることもなくなった「ヤギリ」。これは鉄製の近代的「ヤギリ」ですが、昔は全部木製でした。どこの家にもあった「ヤギリ」は、どこへ行ったのでしょう。
暑い夏。夜、ヤギリの上で涼みもってビールでも飲んだら最高やったでしょうね。我々がビールを飲む世代になる頃には、もう、「ヤギリ」はどっかへ行ってしもうちょりました。


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