住吉野、伊達野、藩政期初期の政策〔4121〕2014/07/28
2014年7月28日(月)晴れ
昨夜は、このところ数日の朝に比べたら涼しかった気がします。深夜に扇風機も停め、吹き抜ける川風の涼しさにひたりながら熟睡しました。人間、慣れるのでありますね。先日まで、日中、30℃を超えたら暑い暑いと思いよりましたが、連日35℃を超えると、35℃を下回る日は涼しゅう感じたりしますき不思議不思議。
今は朝8時。クマゼミのワシャワシャワシャワシャが最盛期を迎える時間帯。クマゼミも、夜が明けるまではウンともスンとも言いませんのに、お日様が東の空に昇ると同時に大合唱を始め、午後にはピタっと静まってしまう、非常に時間に几帳面な生き物。なんか、今年の夏は一層元気のような気がするのは私だけでしょうか。
ここは住吉野。船岡山という山の南に鎮座まします住吉神社さんの境内から南の方角を撮影してみました。この船岡山は、今は珪石の採取で取り崩されてしまいましたが、かつては標高54.1mの山。この住吉神社さんの祭礼に行われた相撲は、高知城下以東の本場として、藩主も観覧に来た程の有名な相撲であった、と言います。今はその面影もなく、掘り残された船岡山の外周の上に静かに鎮座まします住吉神社さん。
眼下の住吉野から、その向こう側が伊達野。「だての」ではなくて「いたちの」。元々は茅野であったようです。湿地帯。太古の昔の物部川も、ここを流れておったという痕跡があるそうです。イタチが出没する野であったのでしょうか。その野も、今は良田が広がります。極早稲の田んぼ。ご覧の、白っぽく見える田んぼは、もう稲刈りが済んだ田んぼ。その他の田んぼも、間もなく稲刈り。
稲刈りが済んだ田んぼの横を通ると、炊きたてご飯の香りがしますよね。
田んぼ横の納屋からはゴンゴンという機会音。精米機が早朝から稼働しておりました。
茅が茂る湿地帯。そこを農地にしたのは、藩政期の初め頃でしょうか。昔の資料などを検証すると、郷士領知の新田が並びます。なるほど。ここも、郷士によって開拓された村なのかも知れません。野市などもそうですが、藩政期初期、失職して不穏な動きを見せておった長宗我部の旧家臣たちを、下級武士ながら郷士という士身分に取り立て、農地開発に従事させる、という政策が実行されちょります。野中兼山さんの灌漑事業などとも相俟って、土佐の生産力増強にかなりの効力を発揮したと思われる政策ですね。また、不満分子が不穏な方向に走ることを防止する効果もあって一石二鳥。
藩政期の為政者は、戦国の長い苦しい時代を行き抜いてきただけあって、政治に関して、できるだけ合理的に、お金を巧く使うことを考えちょります。インフラ整備やメンテナンスに、藩のお金を極力使わず、特権付与などの政策を駆使して民間の力を活用しちゅうのは、見事と言うしかない。
土佐の各所にある郷士領知の新田は、そんな巧妙な政策の結果として広がったのかも知れません。結果的に、土佐の国力を高め、幕末に活躍できる素地を養うていったことになりました。
伊達野の向こうの山は向山。
何度も何度もご紹介してきた、戦争遺跡のある山。あの、山を切り崩しゆう工事は、高知東部自動車道の工事。あの工事現場に、太平洋戦争末期に日本軍が構築しておった壕や高射砲台座の跡がたくさん残っておりました。今は、ほとんどが工事によって無くなってしまった向山戦争遺跡。