福岡城趾の朝、11年の歳月〔4117〕2014/07/24
2014年7月24日(木)暑いばい
今朝は福岡。九州の福岡。昨夜の飛行機でやって来ました。高知空港を夜8時に出て、9時10分に福岡空港に到着するという便利な飛行機ができちゅうがですね。知りませんでした。そんな訳で天神のホテルに到着したのは10時過ぎ。
当然ですが、今朝は5時に起き出してのRUN。やっぱしここでしょう。福岡城趾。
NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」は、本能寺の変も終わり、これから佳境に入ってまいりますが、そんな黒田家ゆかりの福岡城趾。元々、博多湾に面した海沿いの土地。海辺の、少し盛り上がった高台になっちょったので、奈良時代以前という太古の昔から外交施設があったと言われます。平安時代になり、鴻臚館という迎賓館のような施設が置かれたのもここ。何せ、太古の昔の日本の表玄関。外国からやって来る使節は、この前の海からこの国に上陸してきたでしょう。
ここにお城を築いたのは黒田長政。そう。黒田如水、つまり黒田官兵衛の息子さん。関ヶ原の功績で、豊前12万石から福岡52万石の大大名になりました。築城を開始したのは慶長6年(1601年)で、7年かかってつくりあげたそうです。黒田官兵衛は慶長9年までご存命でしたが、太宰府天満宮に隠棲しちょったと言います。
ここ福岡城趾の天守台の上からご紹介するのは11年振り。2003年6月4日、まさにこの場所からのにっこりひまわりをお届けしちょります。ああ、あの頃。
毎月のように、熊本県の小国町というところへ、弊社のアラビノライスを引っさげて研究会に参加しに行きよったがです。高知大学のU助教授さんと一緒に。
福岡空港でレンタカーを借り、一緒に行きよりました。小国町。ああ、懐かしい。
2003年6月4日の前の晩は、小国町から博多まで帰ってきての泊まりでした。九州大学のS先生(この先生は強烈でした。いや、今も強烈です。)と一緒に中洲の小料理屋でおきゅうとを食べたことを、昨日のように思い出します。おきゅうとは「お救人」と書き、飢饉の折に海藻からつくって非常食として、多くの人々を飢餓から救うた、という話を聞きながら。
あの頃は、まだ、地形に目覚めておりませんでした。ので、この福岡という立地の特異性には気付いていませんでした。
海沿いの、海外への窓口。その海沿いの高台に迎賓館。太宰府は、かなり南に入り込んだ安全な土地につくられました。水城の奥。もし、朝鮮半島から大軍が攻め込んできた時の防御機能は、ここ福岡になありませんでしたね。
ちなみに、まあ、ご存知でしょうが、ここは元々「福崎」という地名。黒田長政が築城し、城下町を建設するに際し、黒田家再興の地、備前国福岡にちなんで「福岡」にした訳です。
今日は、ここから大濠公園に下りました。
元々の入江の入口を埋め立て、福岡嬢の外堀にしたてあげたもの。1周2kmの大濠公園は、早朝から、ホントに大勢の善男善女が歩いたり走ったり。皆、汗びっしょりで頑張りよりました。小生も2週ほど廻り、北上して西公園。官兵衛、長政を祀るという光雲神社さんにお参りし、港へ下って長浜。
長浜と言えば長浜ラーメン。ショックであったのが、以前、早朝RUNで食べに寄りよったお店が、朝9時からの営業になっちょったこと。しかし、開いちゅうラーメン屋さんもありましたので、朝長浜ラーメンを堪能してホテルへ帰ってきました。おいしかったです。
今日は福岡の販売店さん廻り。弊社製造で九州乳業様が販売する青汁「みどり菜食健美」を販売して下さりゆう販売店様が、福岡にもたくさんございます。
11年前にここに来たときには、九州は、遠い遠いところでした。一緒に来ていた高知大学のU助教授は、あれよあれよと教授になり、副学長になり、地域連携で大活躍の先生になりました。
そして九州で、弊社青汁を販売して管さあある販売店様ができるとは。人生の不思議を感じた福岡城趾の朝でした。