堀詰の風景、水のある風景〔4111〕2014/07/18
2014年7月18日(金)晴れ
梅雨明け宣言はまだですが、晴れた日が続く高知県地方。ここは夜明け前、高知市堀詰。突き当たりの明るいところが電車通り。
戦国期、まだ、現在の高知の市街地が湿地帯であった頃、この界隈の、鏡川によって形成された高砂の上に国沢城という砦がありました。国沢氏が本拠とした居館。国沢というくらいで、湿地帯の中に浮かぶ居城であったと思われます。
湿地帯は、防御には非常に優れております。船以外で攻め込むのが非常に難しい。歩兵は湿地に脚を取られ、騎馬なんぞはもってのほか。船で攻め込むにも、浅いので、大きな船では座礁してしまう。小舟で攻め込もうとすると、砦からの攻撃の標的になってしまう。
そんな訳で、ここを本拠にした国沢氏は、戦国期、かなりの勢力をもった一族に成長したのでありました。
江戸時代になり、山内の殿様は、水を統御しながら城下町を建設していきました。浦戸湾につながる堀川は、城下町の内部に複雑に入り込み、水郷都市を形成しておりました。中島町から流れてきた堀が、その角で北に流れを変え、あの突き当たりの堀詰で堀川に合流しておりました。
その風景は、昭和の、戦後しばらくまで残っていた風景。
以前にも書きましたが、土佐電鉄の線路は、潮江橋北詰で西に折れ、下りきったところで右折、この道を北進して堀詰で左折、乗出方面に向かっておりました。明治39年から昭和3年まで。
この道は、堀川が流れ、電車の軌道もあった、ということで、こんなに広いがですね。この広さは堀川と電車軌道の痕跡と言えるかも知れません。
土佐電鉄の本社は、この突き当たり左手の角にありました。その隣には堀詰座という芝居小屋。
突き当たりにカラオケボックスがありますが、あの場所にあったのは鳳館。映画館ですね。その裏手が新開地で、ごちゃごちゃとした猥雑な繁華街が賑わいを見せていた昭和の初め頃。
堀詰は小さな池のようになっており、野村デパートのビルが立ち、新京橋の横丁にはカフェーや飲み屋などがひしめき合う風景。池にはかき船が浮かび、水面にネオンが色とりどりに映って華やかな風景。
高知の街中には堀川、水路が網の目にように走って、どこにいっても水のある風景であったのが、いつの間にか街中で水を見る事は無くなってしまいました。そう言えば、以前の中央公園には噴水もありましたね〜。
堀川は埋め立てられ、噴水もなくなり、妙にこ綺麗で無機質な街になってしもうたと思うのは、単なるノスタルジーなのでありましょうか。
その角に土佐電鉄があったのはいつ頃までやったでしょう。土佐電鉄の現在の本社は桟橋。桟橋車庫のところにあります。昔、神戸製鋼の工場があった場所ですな。
高知県交通の本社も、小生が子供の頃は堺町にありました。その電車通りの少し東側。調べてみますれば、一宮に本社が移転したのは昭和44年。堺町の、県交通の待合室を今でも覚えちょります。
今次、土佐電鉄と高知県交通が統合することになりました。で、その検討委員会のようなものが立ち上がったと、ニュースでやりよりましたが、気になったのは新社名。なんと。公募にするんですと。う〜ん。
これは、何やら責任放棄の匂いがします。なんでもそうですが、正式名称を「公募」にしてしまうと、ああああ、そうなってしもうたか、という名称に決まりがち。願わくば「龍馬交通」などという名称だけは、なんとか避けて欲しいと願う今日この頃です。