朝の宇品港〔4097〕2014/07/04
2014年7月4日(金)晴れたり曇ったり降ったりじゃけえのう
今朝は広島。昨夜、やって来ました。で、今朝は初めて広島港方面へとたつくりに行っちょったのであります。市内中心部から電車通りを中電前、広電車庫前を通り、太田川河口デルタの岸を通って広島港へ。広島港と言うより、宇品と呼んだ方がわかりやすいかも知れません。往復12km。
昨日一昨日と、地方公共交通のことを書きました。ここ広島には、広島電鉄。ひろでんがあります。広島電鉄が開業したのは大正元年。なので、明治37年の土佐電鉄に遅れること8年。高知はなかなか先進県やったのでありますね。
土佐電鉄が、浦戸湾にできた桟橋と高知の中心部を結ぶためにできたように、広電も、宇品の港と広島市内を繋ぐためにできたがやと思いよりました。しかし、調べてみますれば、違いました。元宇品の停留所と紙屋町が電車で全通したのは大正8年。宇品港が日清戦争や日露戦争の物資、人員輸送の基地となったのはご存知の通りで、その頃には電車は通ってない。
実は、国鉄の宇品線が、山陽本線が広島までつながった明治27年に、軍用線として開通しちょりました。広島駅と宇品港の間。日清戦争の年。現在の広島城の場所に大本営が置かれた日清戦争では、宇品港はとてつもなく重要な港湾で、国鉄がそのまま港まで乗り入れて大量輸送を担うた訳ですね。
そんな宇品港。今は広島港。国鉄の宇品線は昭和47年に廃止され、公共交通機関としては広電の電車が主要な手段となっちょります。
広島港からは、瀬戸内海の島嶼部への航路もありますが、松山へのフェリー、高速艇もここから発着。何度か利用したことがあります。朝、似島からのフェリーが到着し、通勤客が降りてきよりました。
写真は、旅客ターミナルから橋を渡ってきた浮き桟橋。ここに、各所からのフェリーが着岸します。太平洋戦争まで、ここから、大勢の軍人さんが戦地へと運ばれていった、そんな港。中四国で招集された兵隊さんが南方へ送られる際は、宇品港からの船が多かったにかありません。
広島。
この港は、明治期に埋め立て整備されたもの。かつては海岸線は今よりもずっと北。現在の広島市役所の北、平和大通りに面して白神社さんというお宮さんが鎮座。その神社の立つ巨岩は、戦国期、海岸に聳える巨岩やったと言います。今の海岸線より5km以上も北。
太田川の運んで来る土砂が堆積し、河口部にデルタ地帯を形成したことはわかります。それにしても、堆積するペースが速過ぎませんか?と思いよったら、理由がありました。踏鞴製鉄。
戦国期、中国山地では、盛んに踏鞴製鉄が行われました。農具だけでなく武器の需要が増大したせいでしょうか。その踏鞴製鉄により、大量の土砂が流出し、すごいスピードで中洲や半島が形成されていく一因となった、と言います。なるほど。
なかなか人間のやることも侮れません。思い出すのは鳥取県、皆生温泉の前の海岸線。砂浜。あそこの砂丘は、藩政期、日野川で砂鉄の採集が行われ、それによって大量の土砂が流れ、河口から流れ出た土砂が海岸に堆積してできたもの。少しづつではあっても、長い年月の間に、地形が変わってしまうほどのことをしでかしてきた人類。
今日走ってきた場所は、そんな、人間の仕業による土砂が堆積したり、大自然の力で堆積したり、干拓されたりしてできあがってきた土地。なので、起伏が少なく、走りやすい道でした。
朝の広島港。夥しい兵隊さんが船出したいった港は、平和に静かにたたずんじょります。